第四回コラム

よみとばしのコラム



いつも心にレイザーラモン。よみとばしです。

かれこれ半年前、今以上に肌寒い季節に、家に引きこもって変なFLASHを
作ってたんですが、それが完成して発表した後の散々な評価を見て
「誰にでも広く受け容れられる作品って偉大だなあ」と痛感しました。

本気出して悩んで、筋道が通ってラストに色んな意味を込めた、独創性のある
(というほど洗練されてないので、実際は"独善"でした)ストーリーを考えても、
完成したのは、あまりに考えすぎて煮詰まっちゃってるようなクセの強い話で、
一部の人には褒められましたが、ほとんどの人には「意味がわからない」
「ラストが投げやり」「雰囲気だけで魅せようとして失敗している」と酷評されました。

その時に作ったのは
「積み木の国があって、積み木作りに挫折した女の子が変な花に相談した後、
変なねずみと出会い、一緒に積み木を作ってるうちに何かを見出すんだけど、
結局、積み木を崩しちゃった」

という胡散臭い話なのですが、変な夢を見ている時のような妙に情緒的な雰囲気を
再現したかったし、意味がないようで意味がある世界観を表現したくてこういう
変な話を考えましたが、どう見ても自己満足作品です。本当にありがとうございました。

(過去に専門学校を辞めた事があるのですが、それは「色々辛いし学校辞めたいけど、
とりあえず頑張ってみよう」と考えた1週間後のことでした。
その時に「積み木を積む気になってからでも、崩れちゃう事もあるんだなあ」と感じた事が、
この作品のモチーフになってます。)

製作者の表現への欲求を満たした作品が広く観覧者に受け容れられる例は、多いように
見えて非常に少ないです。それらの作品を思い浮かべてみると、以下の共通点が見られます。

(1)時を超えて語り継がれるほど、多くの人に深い感動を与えた作品

手塚治虫のアトムやブラックジャックに代表される、ヒューマニズムを主題とした
数百の著作は、笑いを織り交ぜながらも人間の尊厳、自然の偉大さを謳い、その上で
戦争や社会や国家が生み出す戦争や飢餓、環境破壊などの問題に警鐘を鳴らし、
著作が発表されて40年以上、二人が逝去して10年以上経った今でも、その著作は
文庫本や「手塚治虫マガジン」などに形を変え、今も広く親しまれています。

(2)マンネリ化しつつも、定番となっているお茶の間向けアニメ

ちびまるこちゃんやクレヨンしんちゃんなど、後半の曜日の、多くの家庭が
揃ってテレビを見る時刻に放映される、長期に渡って続いてるアニメです。
際立って面白い回はありませんが、安定した面白さを毎週届けてくれます。
これらの番組が長期間続くのも、それだけ作品世界が一般的な日常と近く
広い世代が共感して見れるからだと思います。

(3)発表された当時の世相を反映、もしくは時代のニーズにマッチした作品

これは前者の二例と比較すると訴求対象が一部の層に限定されてしまいますが、
少年犯罪や無気力な若者など、不況などがもたらした社会の停滞、社会不安が
クローズアップされていた1995年に、ロボットと地球存亡を巡る少年の
内面真理や内的世界を表現し、10年経った今でも日本だけでなく海外にも
熱狂的なファンが居る「新世紀エヴァンゲリオン」や、「萌え」全盛の現代に、
登場キャラクターの人数をウリにして話題を集めている「魔法先生ネギま!」
などがあります。後者の作品はストーリーに全く着眼点はありませんが、
それほどコアでなく、こういった作品に萌え以外の要素を多く求めないオタクが
求める萌え要素が殆ど詰まっており、作品の評価は別として、コラムのテーマにある
"「見る側の求めるような」作品を提供する……"という一文に合致しています。
前作の「ラブひな」を見ても、赤松健氏は「作り手が作りたいもの」より
「多くの見る側が望むもの」を優先して書いているのだと感じられます。
多くの訴求対象にマンガを売る為に描く事を前提にしている現代では
それはそれで一つの優れた才能と認められるものだと思いますが、
読者に媚を売っているようにも見えて、その姿勢に共感する事は出来ません。



少し話が逸れましたが、時流の中に埋没せず、十年、百年と
多くの人に記憶される創作物には、ふたつの共通項があります。

それは「独自性」と「普遍性」です。

芸人でも、一年で忘れ去られる人、いつの間にか存在が薄れている人も居れば、
数十年に渡って色んな番組の顔を努め、大御所となっている人も居ます。
テレビの前の飽きっぽい人々の支持を繋ぎ止め続けるには、それだけの存在感と
時代が変わっても揺るがないギャグを飛ばし続ける為の努力が必要です。
創作物も同じ様に、世相に惑わされない普遍性を作中で捉える事で、
辛うじて生命を永らえる事が出来ます。それは、並大抵の事ではありません。



しかしその生命は、永遠に鼓動する魂へと昇華するでしょう。
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# by bungeisai | 2005-10-24 00:34 | 第四回コラム

第四回コラム

ひかげAKさんのコラム



観覧者を意識して作品を作ることについて


 というテーマなんですけど、うーん、困ったな。「独りよがりに陥らず、客観的な視点を持たなければならない」とか、「鑑賞者の要求を掴むことが大切だ」とか、そういうことを書けばいいのでしょうか?

 ええとですね、でもですね、ご存知のように私は萌え研のヒトなわけでして、私が製作しているのは妄想上のおなごにひたすらに熱を上げるという、ほら、もう書いて字の如くとしか言えないような「独りよがり」極まる作品なんであります。ええい、独りよがりの何が悪いってんだ、はんっ、いいんだよどうせオレみたいな萌えオタなんて、ああもうほっといてくれ

 喝采なんていらないんだ、あの娘の笑顔さえあれば、もう何もいらない。

 三文ポエムを綴ってる場合じゃないんですけれど、満場の喝采を求めるよりも、そう、ちょうどお目当てのあの娘にせっせとプレゼントを贈るのと同じような姿勢で、自分は作品製作をしていけたらなあと考えています。

 プレゼントに自分の気に入らないものを贈ったりはしないですよね。大切なヒトにほど、とっておきのお気に入りを贈ろうとしますよね。そんな思い入れの深さを見せてこそのプレゼントです。で、当然にめいっぱい包装も凝らしたり、渡すタイミングを考えたりする。表現論的にいかにすべき、といった大袈裟な話ではなくて、鑑賞者を意識する、というのはこんな当たり前なかたちでやれたらいいなあ、と考えたりします。

 もしくは、それぐらい作者と鑑賞者の距離が近いのがFLASHの世界なんじゃないでしょうか。マクロメディアはさかんに喧伝していますけど、「個人の製作ツール」であるとは、直裁に個人の思い入れや嗜好を反映するということであって、また直接に見る人もそれを受け取るということですよね。なお職人と鑑賞者の目線の高さがまだまだ近い、未分化で混在的なFLASH・動画板にあっては、プレゼントと同じように考えるとちょうどいいんじゃないかなと思っていたりするのです。


 ところで問題は、じゃあ「あの娘」ってどんな娘なのよ、何が好みなのよ、ってことなんですけれど、そう、そもそもに「鑑賞者」といいますが、それはいったい誰のことなのでしょう?

 まさか皆さん全地球人類を相手に作品を製作してますか?言語も異なるような人達を相手に?んなわけないですよね。この国の全ネット住人相手でも凄まじい話です。老若男女、貧富保革の思想も階層も違う人達を相手に、いったい何を作ればいいのかわかんない。フラ板全体でもまだ広過ぎる。だって700余りものスレがこの板にはあるんですよ?

 「客観性」というのはある種のまやかしです。もしくは、抽象的な「鑑賞者」なるものは存在しない。あるのは、具体的に萌えが好きだったり、MG志向だったり、はたまた文章系に耽溺していたりする、個々にさまざまな嗜好を持った人達ですよね。

 「観覧者を意識する」というのは、まず「この作品を贈りたいのは誰か」を特定することから始まる話じゃないのかなと思うのです。趣味の異なるヒトにいくらプレゼントを押しつけても迷惑以外の何物でもないわけで、逆にお目当てが決まれば、抽象的な考察を抜けて、何を具体的になすべきか、どのような表現をなすべきかが見えてくるものかも、なんてことを自分自身、製作に行き詰ったときにはつらつらと考えたりします。


 さて、プレゼントなんですけど、びっくり箱って贈ったことないですか?私は結構大好きなんですけど、素直に喜んでもらうだけがプレゼントではないですよね。

 世に憚られるようなもの、無言のうちに圧力のかかっているものだからこそあえてやってみる価値があるというのは、某団体に喧嘩を売ったすなふえさんにせよニートを扱うアンタイトルさんにせよ、証明していることですよね。世のレッテルをそのままなぞっているだけでは出てこないものがあります。「鑑賞者を意識する」というのは、ラベリングをひっくりかえす時にこそ、最も必要な力なのかもしれません。

 機会があったらこうした試みのありかたについて書きたいなと思っているんですけど、今回は、ここまで、です。またよろしくお願いします。文芸祭、もうすぐ開催ですね。
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# by bungeisai | 2005-10-24 00:33 | 第四回コラム

第四回コラム

ワシ@部屋長さんのコラム(1)



1、よみとばしとかいう男

先日、東京でちょっとした飲み会があったのですが、その席でなにやら間の抜けたにやけ顔で、ニート臭漂う男が僕の目の前によろよろと現れました。
おやおや、なんだ? この踏みつけたくなるような面構えの男は、といぶかしく思っていると彼はへらへらと、
「あっし、よみとばしでやんす」
といかにも下っ端臭い語り口で自己紹介。

はて、なぜ僕の顔を知っているのだ? と問うと、
「以前会った事あるよ、やだなあ、健忘症っすか? 君、藁藁」
などといいながら、ケタケタとひと笑い。
ニート風情が「健忘症」という言葉を知っているのも驚きですが、自分の記憶力のなさにもびっくりしてしまいました。
ただ、おそらくこの面なんぞ記憶する価値はないと無意識に判断したからだろう、と自らに言い聞かせながら何用かたずねました。

するとよみとばしというニート、にやけて曰く、
「いやあ、オレ、今文芸祭、あ、知ってるっしょ? あの文章系の一大祭り、一流の文章系Flash職人たちが文章で見せるあの年に一回のイベント、文章系の代表としてオレが主催してるんっすけど、今そのサイトで文芸動秋ってコラムやっていて話題になってんすよ。で、一応文章系っぽいFlashを作ってるらしいワシさんも当然なんか書きたいだろうから、スペースあげるから書いてもらおうかなあ、って思ってるんすよ。なので、今度書いてくださいね」
とのことでした。

あまりに頭の悪そうな物言いにくらくらしながら、ニートと違い社会人には仕事があるし、いったいどういう内容のものを書くのか、どういった納期でどういった訴求の仕方で何ワードくらいの文量を納品すればいいのか聞かないうちには、責任を持って受諾できないしものは書けないよ、とハローワークのおじさん的心境で穏やかに説いてあげました。
ところがこのニート、何をどう解釈したのか、うんうんとうなずきながら、
「なら、忙しいところ申し訳ないんすけど、やってくださいね。内容とかは直前に送るんで」
とあさってな返答。

うーん、ニートいずくんぞ社会人の日常を知らんや、といったところなのでしょうか? あるいは頭が悪いだけなのか、これ以上議論をしていても時間の無駄といち早く理解した僕は、とりあえず書かせていただくことに。
で、その内容、今日(10月22日)確認、明日発表だから今日中に書けとのことでした。
あー、やっぱり頭おかしいんだ、よみとばちゃんって。


2、そもそも「観覧者を意識して作る」必要はあるの?

閑話休題。
長い前置きになりましたが、せっかくなので僕もちらりと書かせていただきます。
テーマは「観覧者を意識して作品を作ることについて」 なのだそうです。
んー、なんていうか、前提として表現者が基本自由に表現でき、表現を無料で見られるインターネットという環境下において、必然性として「表現者」と「観覧者」という区分けが存在するのか、はなはだ疑わしいのですが……。

例えば一般のメディアを広く見渡せば、それぞれの主格とそのレーゾン・デートルは判然としています。
テレビ番組を挙げれば、作る側は「CMを有効に見てもらうためのコンテンツ作り」ないし「制作費を出す主格(NHKであれば受信料を払っている人)にとって有益である情報を流すこと」、また見る側は「CMを享受してもいいと思えるコンテンツ探し」と「人生に必要な情報供給」のはずです。
それぞれの要求とレーゾン・デートルが拮抗しているからこそ、そのメディアという存在は「安定」します。

ではインターネットのFlash表現において、そのような確たるレードン・デートルは存在するのでしょうか?
あるいはアフィリエイトなどをやられている方には、存在しえるのかもしれません、Flashを広く認知させないと稼げませんしアフィリエイトの内容にあったFlashでなければクリック数もあがりませんので、それが「表現者」の役割になり、演繹的に「観覧者」を意識した作品作りの答えになり得るかもしれません(そういえば関係ないけど、なんでFlashの最後なんかに直でアフィのリンクはったりする人いないんだろう? 誘導線的にはFlsahに直でリンクはった方がもうかりそうなんだけどね、直リンやデータ転載にも対応できるし。んー、どうなんだろう、アフィリエイトってやったことないからよう知らんけど)。
あと、著作権意識の薄いどっかのレコード会社にキャラクターの使用料を売ってひと稼ぎ……ごほんごほん。

僕なども一応Flashなどを作っていて、以前seasonといういんちき臭いFlashのパロディ版を出したとき、「seasonで感動したのに、気持ち悪いもの見せられて気分が害された、どうしてくれるんだ」といった内容の、ほめられているのかけなされているのか良くわからないメールを頂いたことがあったのですが、「げへへ、おいらの方がもっと気持ち悪いでげすよ、ぐへへー。まあ気にしなさんな、これからはブラクラFlashをふまないようにね」とやさしく返答してあげたくらいで、特にあれこれ対応したわけではありません。

なぜなら主格の存在意義がはっきりしていないので、それに対する責任も負う必要がありませんし、存在を擁護するための確たる理由もないからです。
「公開しているからには自分の作品に責任持て! 面白いものを作れ! 絵をもっときれいに描け!」と怒られてもねえ、その要求にこたえなければいけない理由があまりないんすよね。
あるとすれば、データとしてある表現がどのようなレスポンスを得られるかという興味を得るために、それを阻害する要素を省く必要がある、というのはあるのでしょうが、ひどい内容のものに対してひどいレスポンスがある、というのは反応として正しいわけですしね、困ったものです。


3、議論はまず命題が真であることを証明すべきもの

で、そんなこんなでどうも前提となる条件自体あやふやなこのテーマ、議論をするには議論のテーマが正当性を持っているのか、きちんと判断しないと始まりません。
なんでまたニートのよみとばちゃんは選んじゃったのかと考えると、頭が悪い、という以外にもあると考えられます。
答えは実に単純、「インターネットのFlash表現を、既存のマス・メディアの存在理由と同じイメージで捉えちゃっている」ということが原因かと思われます。
これはアマチュアイズムを大いに勘違いした発想で、いわば「プロ」のメディアがもつ責任や要件を無視した上で「プロフェッショナル」を語ろうしちゃったために起こることです。

またそれが起きるのは、「プロ」をどこかで目指す、あるいはプロを身近なところから生み出したいため全貌が見えていないからなのでしょうね。
よく「このFlashは商用でも通じる!」なんてコメントを見かけたりしますが、予算・要件・納期も条件として設定していないクリエイティブにプロフェッショナリズムでの話をしてどうするんだろう、と思っちゃうのですが、皆さんどうお考えなんでしょう?
個人的にはたかだか、といっては申し訳ないのですが、だらだら制作し、訴求が明確でもないのにネットでだらだら流しているだけの個人動画の作り手が、「観覧者を意識して作るとはいかなることか」なんてしたり顔で言っちゃうのは、ちょっと粋じゃない、というかこっぱずかしいなあ、なんて。

なので、「プロ」的なレスポンスを必要のないアマチュア製作物に対して、観覧者がどうだこうだというのは両者にとって無意味かつ根拠付けられないものなので議論にならない、というのが僕の解なのですが、それをいったら何のためテーマを設けて散文を書こう、という企画をやっているのかわからなくなっちゃうので、ある種の条件や根拠を考えない上で、「ものを作るうえで、受け手を意識する必要性について」くらいのお話をさせていただこうかと思います。


4、クリエイティブとその成立について

ところで、そもそも論として「クリエイティブ」とはいったいいかなるものなのでしょうか?
「表現を作る」という意味で捉えるなら、それはまさしく「表現」そのものであり「伝達物」なのだと考えられます。
となると、発信者がいれば、受信者も必要、つまり「観覧者」が存在しなくてはいけません。
ただものの伝達は発信者から受信者に受け渡すだけで終了するわけではありません。
当然受信者が、それを見た旨を伝える必要があります、もっと言えば「意図したとおり/意図しない形で受信した」旨を伝える必要があります。
これは当然のことで、何らかの理由がありボールを投げたとき、そのボールが目的を満たしてくれる道筋をたどりきちんと到着したか、あるいは意図しなかった場所に飛んでいってしまったか、その結果がわからなければ「ボールを投げた根拠」自体が失われてしまいます。
つまり、表現者からの「発信」にたいし「受信という発信」が行われて初めて表現を表現たらしめるわけです。

よく文明とは「コミュニケーション」だといわれますが、コミュニケーションにはこの2つの要素が満たされれば成立します。
ところがことはそう簡単なものではなく、コミュニケーションは得てして「不全」になることがあります。
その理由は大きく分けると2つあります、もちろん「発信者側の問題」、それから「受信者側の問題」の2点です。
前者は表現者が、レスポンスを得るために最低限必要な情報を発しない場合におきます。
作品の出来によって受信者が評価をするに値しないと感じるなどのケースはもちろんのこと、評価するために必要な情報がない場合にもコミュニケーションの不全は発生します。

例えば何かを伝達したい「Aさん」が伝達したい相手の「Bさん」に向かって、無言でぶっきらぼうにみかんを渡すとします。
受け取ったBさんは困るはずです、このみかんをどうすればいいのか、食べればいいのか、ジュースにすればいいのか、あるいは預けられただけなのか、それら情報がなければ受信側も困ってしまいます。
「こういったことをしてほしいんだ」「こういった反応がほしいんだ」という明確な意図があれば、その意図を伝えきるのが「クリエイティブ」を行う際の、発信者が行うべき最低限の義務だと考えられます。

またイベントやコンテストなど比較をする必要がある場であれば、その比較に必要な条件を提示するのも発信者の役割です。
あるイベントに2つの作品が応募されていたとします。
ひとつは「大変緻密なアニメーションで制作期間は2年、10人グループで作ったもの」、もうひとつは「雑だけれどもきらりと光るものがある、制作期間2日で個人が作ったもの」だったとします。

これを批評する際、受け手はそれぞれの情報を加味した上で、「緻密なアニメの方は2年10人という体制をかんがみるとそれほどたいしたことない」とか「大変すばらしい、2日の方と比べ体制も整っているので仕事としてアニメーション制作を頼める」、「2日という納期で確実に訴求力のあるものを作れるのはすばらしい、コンスタントに面白いものをつくってくれそうだ」、「もっと長い時間とスタッフを整えればきっと2年10人のものよりすばらしいものがつくれる」などの評価を下すはずです。
ところが「2年10人」や「2日個人」という情報が提示されていなかったり、不当にな形で情報が漏洩した場合、評価はがらりとかわったものになるはずです(間違いなく好評価を受けるのは前者のはずです)。
正しいレスポンスを受ける、というのは「正しく適切な情報を不足なく提示すること」から始まります。
制作者は自分の評価を正しく守るためには、正しく評価されるための努力を惜しむべきではありません。

さてもう一方の問題、「受信者側の問題」ですが、これは送信者が正しく必要な情報を提示しているにもかかわらず、当然得られるべきレスポンスが得られない場合に起こります。
先ほどのみかんの例で言えば、AさんがBさんに「おいしいみかんジュースをつくってほしい」と頼んでいながら、りんごジュースがでてきたり、腐った味のするジュースがでてきた場合、やはりコミュニケーションは「不全」となります。

元々、クリエイティブは同じジャンルやカテゴリー、参加しているイベントなりコンテストの中にあっても、コンセプトや訴求点など異なっていてしかるべきものです。
そのような、原理的にもっている相違を加味せず偏った評価をするのは、受け手のあるべき姿とはいえません。
2年10人と2日個人の例ではありませんが、それぞれに、それぞれの目的や得たいレスポンスがあり、またそれを得られるための情報を提示している状況で、仮に「自分は緻密なアニメしか興味ないので2日個人の方はおもしろくもなんともない」という意見があれば、それは正当な批評や評価ではなく、事実の鸚鵡返し、作り手が提示した情報をそのまま繰り返しているだけに過ぎません。
つまり投げかけに対し、投げかけの内容を改めて送り返しているに過ぎないのです。

もちろん人間ですから、好みもあれば贔屓目もあります、それらを含め多くの情報から、極力客観的な視点で、(誤差を消化しうるだけの)多くの意見やレスポンスを提示してあげることで製作者は自分の位置を正しく判断できるようになります。
ようは受信者も高いレベルの視野と、得られた情報から冷静にレスポンスとして、受け手からの「表現」を行う必要があるということです。

これらの不全を解消し、送信者、受信者が良い意味で拮抗し、互いに高い位置でせめぎあうことことが「クリエイティブ」をクリエイティブたらしめるひとつの要素と考えられます。
送信者はもちろん、受信者の能力が欠いていても高いレベルのクリエイティブは行えません、Flashコミュニティ界隈で作品を閲覧されている方々もぜひ、鸚鵡返し的な安い意見・レスポンスではなく、情報に基づき具体的根拠の中で確かな意見提示を行って頂きたい、と節に願うばかりです。
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# by bungeisai | 2005-10-24 00:32 | 第四回コラム

第四回コラム

ワシ@部屋長さんのコラム(2)



5、クリエイティブの目的とその達成

さて、「クリエイティブ」というものの意味をごく簡単に追ってみましたが、ここで「クリエイティブ」というものが発生する根源的な理由・目的について考えてみたいと思います。

先ほど「クリエイティブは伝達である」というお話をさせていただきましたが、伝達であるからには伝える理由があるはずです。
みかんジュースをつくってもらおうとしたAさんも、また表現する理由があったはずです(例えばのどが渇いていた、など)。
ではクリエイティブが目指すところの目的には、どのようなものがあるのでしょうか?

既存メディアをかんがみると、例えば2の項でも書きましたが、テレビであれば「CMを見せるための呼び水的意味」と「お金を出す主体に有益である情報を提供する」という2つの理由があります。
おそらく多くのメディアがこのパターンの目的を持ちクリエイティブが行われていると思います、つまり前者は「クリエイティブにより別の何らかの目的を達成する(間接的訴求)」、後者は「益に対しそれに対価するクリエイティブを提供する(直接的訴求)」と言い換えられると考えられます。

仮に2や3の項で書いたような「観覧者を意識する必要性がない」という仮説を考えない上で、これを現状の「アマチュアがアンダーグラウンド的なネットの表現の場で行っている個人製作の動画」の世界に当てはめると、どんな目的が見えてくるのでしょうか。

例えば「間接的訴求」でいえば、「アフィリエイト広告をクリックしてもらうための宣伝としてコンテンツを作る」や「アクセス解析・リファラ等によるマーケティングデータの採取」「別のジャンルやフィールドでのクリエイティブの前に行うテスト(β版的意味合いも含め)」「有料コンテンツへの展開に向けて、宣伝効果をねらったコンテンツ提供」などが考えられると思います。

またFlashコミュニティーという意味合いでは、「広くコミュニケーションを行うための題材・きっかけとして作る」「手軽に自分の表現能力を試せる場として、内省的な意味で自身を知るために表現を行う」「小さな箱の中で『もてはやされる』喜びを味わうために作る」といったことが考えられます。
さらに類似したマス・メディアへの転化として「プロフェッショナルになるためのきっかけ・箔付け。あるいは、あわよくば既存メディアの登竜門的コンテストで入賞したり、偶然ネットで作品を見かけたプロデューサーなりディレクターなりに拾ってもらうための作品提示」を目指し作るという見解も出来るかと思います。

一方「直接的訴求」はアマチュアメディアではまだあまり広がっていないのかもしれませんが、「コンテンツを有料化し提供する」「企業等のコンセプト広告として何かしらの表現をする」「有料イベントにバックマージンの代価として作品と提供する」などが挙げられるかと思います。

いずれにせよクリエイティブには明確な理由があり、それを満たすためのレスポンスを得たいと思うものです。
逆に言えば、観覧者はその表現者からの訴求に対し、望むべき結果を与えてやってよいのか、あるいはそれ以上の評価を与えるのか、反対にそれ以下の評価を下すのか、全ての裁定の基を担っています。
その意味で、先ほど申し上げましたとおり表現者は観覧者に対して、より望む結果を得られるような形で情報を提供する必要があります。
例えば「何かしらのコンテストに発表したいと考えている作品を一般公開し、修正点をあげてもらいたい」という欲求から作品を公開しているのであれば、より多くの、確かなレスポンスを得られるためにその旨を伝え、この部分のこの動きが肝であり、こういった部分を提案したい、と提示する場においてどこかで伝えるべきかと思います(あるいは伝えないことにより「何の情報もなく理解できるか」という確認もできるかもしれませんが)。

もちろんこれは、コンテストに出す、というケースのみの例ですから、他のあらゆる目的に対し共通の要件ではありませんが、何にしても表現者は表現を行う前に、レスポンスを得られるためにやるべきことを意識し、その後で改めて表現の向上について意識すべきかと思います。
制作時間や目標などの情報以外にも、作品自体の属性(自分の作品がプロのメディアに近いものを目指し作られたものなのか、あるいは寺山修司的な実験動画を目指して作られたのか)や、自分の作品に求められるレベル(何かしらのビジネス展開をしたいのでそれに見合うだけの表現になりえているのか、あるいはそうではないので気軽な視点で見てもらいたいのか)、その意思表示は必要に応じてすべきです。
もちろん隠しておくべきは隠しておいて良いかと思いますが、それが表現の邪魔をするようでしたら、「レスポンスを得たい」という目的の元行われる表現活動の原理を考えれば本末転倒です。

これらの、「クリエイティブの目的とその達成」に必要なこととは何かを考えることが、おそらくクリエイティブを行う者の最低限の「自分の作品に対する思いやり」かと思います(表現者の作品は作品を提供した段階で表現は表現者のものではなくなるわけですし……)。


6、「観覧者を意識して作品を作る」ために

さて本題です。
観覧者を意識した、具体的な作品作りの方法とはなんでしょう?
上記で述べてきました「発信者」としての義務や目的を補完しうる要件といった内容はもちろんのこと、肝心のコンテンツが十二分に「表現」として成立するものでなければ、結局は得たいレスポンスは得られないものになってしまいます(いわば聾唖的なクリエイティブは厳禁ということです)。

その表現として成立させるためのテクニックですが、おそらく基本的な要素は皆さんご承知の通りです。

文章であれば見る側がきちんと読める尺をとる(実際動画コンテを作ってみて、自分でも十分読める尺か確認してみるのがベターですね)。
ショートムービーの場合、音楽の同期なども重要かもしれません。
音の区切れにカットを変えるなどの同期の取り方はもちろん、曲の印象に合わせシーンを変更する等も、観覧者に対して耳から直感的にストーリーを汲み取ってもらうために有効な手段かと思われます。

Flashというツールの特性を使うのも面白いかもしれません、スクリプトを組みゲーム的な要素を加えてみる、ボタン操作でストーリーを文節に分けて展開、隠しボタンで別の内容を挿入、などなどwebを意識して作られているFlashだからこそできる表現もまた、観覧者に驚きを与えるひとつの要素になりえるでしょう。

それから、これらの部分部分の気遣いのほか、全体を通してより「表現」として面白いものを提示する努力も必要です。
例えばそれはメリハリをつける、といったことかもしれません。
ストーリーの起承転結、というのは使い古された言葉ですが、一連の流れとしてコンテンツを見せるということを常に意識する必要はあるかと思います。
最も見せたいシーンをより引き立たせるためにはどうするか、起であったり転であったりどこかのシーンだけがむやみに長くなっていないか、尺の長さ短さは適切か、視覚効果はうまく働いているか、自分が表現したいことを過不足なく表現できているか……。
さまざまな要素が挙げられるかと思います。

ただ、ネットでアップするコンテンツを作る上で何より重要なことがもうあります、それは「Flashの再生中にウィンドウを消されないこと」です。
「そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、はたして(僕も含め)多くのFlash製作者は本当に「途中で消されない」ための努力を十二分にしているでしょうか?
ウェブはいわゆる3秒ルール(5秒ルールという人もいますが)があります、あるページを見たときに「そのページを見る必要がない」と判断するまでの時間です。
ネットのバナー広告は基本、このルールにのっとり、「つかみ」に非常にこだわっています。
まずは結論(何がどのくらい特になったのか)やインパクト(センセーショナルなコピーライティングの提示)を表現し、そのページ内に観覧者をとどめる努力をします。

例えばローディング中、程度の低い画像が出ていた場合、観覧者はどうするでしょうか?
そのローディング画面だけで作品全体のクオリティを想像し、画面を消してしまうかもしれません。
実体験として、ものの数秒Flashを見ただけで別のページに飛んだ、という方は少なくないかと思います。

これは単に「数秒見ただけで全容が判断できたので見るのをやめた」と安易に判断してしまってよいのでしょうか?
僕はこういう話をするときによく引っ張ってくる言葉で、メディア論の大家、M・マクルーハンの「メディアのそのものがメッセージだ」という話を挙げます。
マクルーハンが言うには、各メディアはそのコンテンツ内容奈何ではなく、メディアの性質そのものが観覧者にメッセージを投げかけているというのです。
この見地で、例えば映画というメディアを考えると(マクルーハンの説とは異なった見解になりますが)、コンテンツ内容を詳しく確認することなくお金を払い、中に入って初めて実際のコンテンツに触れることが出来ます。

そこには「最低限面白いものが見られる」というある種の信頼関係があるから成立するものなのですが、仮に面白くなくても先払いであり「途中で出にくい環境(暗闇であり、ゆったりとしたシート席)」のため、とりあえず多くの人が最後まで見ることになるはずです。
こういった環境下であれば、大げさに言えば最後5分だけが圧倒的にすばらしい内容であっても客を満足させうる可能性もあるということです。

一方ネットというメディアはその特性上、「すぐにページの移動が出来る」「途中観覧をやめるデメリットが乏しい」という以外にも「無数のコンテンツがある(ニュースサイトなどを見れば一日何十本という新作が出ている)」ため、観覧者は早い段階でその作品に対する評価を決めてしまいがちになると考えられます。
(ただ一方で、今回の文芸祭のように、コミュニティ内で大いに作品評価や批評が盛り上がるイベントであれば、「最後まで見なければ話題に入れない」と観覧者が感じることで最後まで見る可能性も高くなります。その場合は思い切った構成の動画を作るのも手かもしれません)。

そういったメディア自体が持つ特性も意識し、最適な表現をすることが、「観覧者を意識して作品を作る」上で重要かと思います。


8、コミュニケーションで磨かれるもの

さて以上、実にざっくりと、思いついたことをそのまま羅列してきましたが、はじめにも言いましたとおり何も堅苦しく色んなことを考えず作るのも一興かと思います。
結果から目的を生み出す、というのもままありかとも思います(昔の学生運動的に言えば「体制から行動が生まれるのではなく、行動から体制が生まれるのだ」といったところでしょうか)。

ただ一方で、クリエイティブはそれそのものに多くの示唆と教示にとんでいます。
作り手、受け手に関わらずそれに関わること自体に、多くの思考的向上性が含まれています(なぜならクリエイティブとは文化そのものだからです)。

インターネットのクリエイティブは、基本的に表現者と観覧者を結びつける接点は、ネット上のコミュニケーションツールになります。
その中で何を発露するのか、あるいはレスポンスとして何を投げかけてあげるか、それはとりもなおさず自分自身の向上につながると思います。
存在する情報を屈指し、より良いものを作り、よりよいレスポンスを与える、ネットのコミュニケーションの中で磨かれていけば、よりよいクリエイティブが作られる土壌が出来るのではないかと思います。
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# by bungeisai | 2005-10-24 00:31 | 第四回コラム

第四回コラム

hmtbsmvさんのコラム



> 「観覧者を意識して作品を作ることについて」
>
> 作品を公開するということは、同時に作品を誰かに見て貰うことを意味し、
> この際に「制作者と観覧者」という、作品をめぐる二つの層ができあがります。

まぁそうですねー。

> 作品を見て貰うために、見る側を例えば「喜ばせる」……
> 「見る側の求めるような」作品を提供する……
>
> このように観覧者のことを意識しだしたとき、

意識しなければいいでしょう。

> 作品制作には、エンタテインメント性の向上や制作スタイルの限定など、
> 良い影響も悪い影響も起こりうるのではないでしょうか。

どうだろうね。
『この製作者はこういうものを作るだけの人』と思われるのが嬉しいんなら、
そのままでもいいんじゃない?

> 今回は、こうした「制作の上での観覧者の存在」について論じて頂きたく存じます。
> 前回の「作品をめぐる観覧者としての感想のあり方」と絡めて議論していただいても、
> また個別に話をしていただいても構いません。

終わりました
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# by bungeisai | 2005-10-24 00:30 | 第四回コラム

第四回コラム

唯樹 只埜さんのコラム



「観覧者を意識して作品を作ることについて」

うん。俺意識したことないよ!

作品って自己満じゃないの?
閲覧者?何それ食える?(ここまで前提)

という事で。

いつも通り、真面目な文章は他の方々に任せるとして、
作品ってさ、何回も言われてるようにオナニーじゃない。
自分の作りたいもの作って、晒して、ちょっとでも見てもらえば儲けもん、
みたいなね。

いきなりテーマからは離れるんですが、
最近「見てくれるか心配」だとか「楽しんでもらえるだろうか」とか
素っ頓狂な事考えて一人で勝手に悩んでる人を見かけたりします。
作品っつーか、ほぼあらゆる芸術作品(商用除く)って、
作者→受け手への一方通行な訳で。
そこに「理解」だとか「疑問」だとかの受け手側の思いなんざ一切関係ないわけです。
(まぁFlashを「芸術作品」の中に包括していいのかは甚だ疑問だが)

まぁ作り手としては感想が欲しかったり、何らかの感動を起こさせたかったりはしますが、
それはあくまで副次的な産物でしかないと個人的には思ってます。
セグメントした対象と、選んだモチーフにもよりますが。

「MM」のようなイベントでは作品の特質が問われる訳だから、
観覧者に対してどうこう、というスタンスになるとは思います。

さて、ここまでは「内面」的な部分。

唯一「観覧者」を意識する事があるとするなら、
「外面的」な技術の部分。

つまり、文章系なのに文章の色とかタイミングとか背景色との色合いを考えてない、
とかは論外。(意図があって見せにくくする場合は別)
特定の環境でしか見れなかったり、特定の制約を設けるのも、まぁどうかという所。

それは製作者のエゴ、或いは怠慢でしかないと思います。

そこは「WEB作品」として、思いやりを持つべき部分ですかね。

と、まぁ文藝祭実行委員会側の述べさせたい思惑を一切無視して4回目。
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# by bungeisai | 2005-10-24 00:29 | 第四回コラム

第四回コラム

ハリジャンひらのさんのコラム



ホントに文芸祭まであと少しとなって参りました。
あと二週間もすると始まるのかと思うと、「え? マジで? あとそんなもん?」とか思います。
マジであとそれしかないんだなあ。
あ、え、順調に準備は進んでますよ、きっと。

そんな話はさておき。
flashを作る事と観てもらうことについてのお話。
最初に言いきってしまうのも恐縮ですが、「flashを作る事」と「公開して観てもらう事」は
行為としてイコールとはいえません。
なぜかというとflashというのはジャンル名でも形式名でもなく、手法というか手段の名称でしかないわけで
flashを作る事とその作ったflashを何に使うかは結びつかないからです。
つまり「これを観る人に伝えよう」「こういう映像美を魅せよう」といった目的意識を持って制作されて
初めてflashは目的を持つ映像となるわけで、手法その物にはなんの目的もないということです。
言うなればflashはなんの模様もない器のようなもので
制作者が自由にそこに盛りつける事ができるといった感じでしょうか。
flashは所詮道具でしかありません。
したがって「観られる事を意識する」というのは「この思いを伝えたい」「こういう映像で魅了したい」
などいう目的意識を持って「観られる事を前提に制作」されて初めて意味があるわけです。
非常に当たり前のお話。
逆にいってしまえば意識しなければ、全く他人の目を気にしない
俺様オンリー面白作品を作ってしまうこともいくらでもできるわけです。

「人に観られる事を意識して作る・作らないは作者の選択次第」
前置きが長くなりましたが、それがまず前提です。
では「どこまで制作者は観覧者を意識し、どこまで制作者のエゴで作るべきか」という今回の本題に入りましょう。
あ、ちなみにこれは「商業的目的=プロの仕事ではない、個人的趣味の制作である」という
前提があります。
商業的に作られる、プロの仕事としてのflashの話はまた別のお話なので悪しからず。

さて、これはflashだけに限らず表現というものをやる限りについてまわる難しい問題です。
客観的に観られる事を意識しない製作物というのが、作者の独りよがりに終わる危険性がありますし、
観覧者を意識しすぎて、自分の作りたいものの理想から遠ざかってしまうのも本末転倒。
どこからセーフでどこからアウトか。
このバランスを如何にすべきは文学の世界なんかでも延々と議論されていたりしますが、
明確な答えは出ていません。

ちょっと小説のお話をします。
20世紀の文学を語る上で外せない金字塔的な作品の一つに
マルセル・プルーストという人が書いた「失われた時を求めて」という小説があります。
この作品は近代文学の築いてきたものを踏襲した上で、新たなる表現を生み出した、
最初の「現代文学」と呼ばれる名作なのですが、
プルーストはこの作品を他人との交流を全く断って、田舎に引きこもり、
コルク張りの書斎で十年かけて執筆しています。
観覧者を意識するということは他人の評価を意識する事でもあります。
プルーストはあえてそれを無視するというかなり強引な態度で自分の理想だけを追求して書いたわけです。
感想や他人の評価といった作品に向けられる言葉はその作品の善し悪しを量るものさしではあるものの、
作品の絶対的価値を表すわけではありません。
前回のコラムにも書きましたが、感想や批評といった「作品について語ること」とは、
すでに完成された作品に対して後追い的に再現してみせる行為でしかなく、
「過去」を語ってみせることはできても、未来を見いだす事は構造上難しいといいざるえません。
前回引用した蓮実重彦の「言葉は絶えず敗北する」という発言の真意も、批評というジャンルの限界を示したものでしょう。
ある程度のものさしにすぎないと言い切るのもアレですが、そういう側面は無視できないと言えるでしょう。
プルーストの例だけでなく、外界の声を無視し自分の理想を追い求めた小説家というのは
文学史をひもとけばいくらでもいるわけで
かの中上健次も「全世界を敵に回してでも自分の理想を貫け」と過激な発言をしているし、
J・ジョイスにしても、H・メルヴィルにしても世間の評価との対立の中で執筆をしています。
歴史に残る傑作、大きな衝撃を残した作品とは大抵において、未だ見ぬ価値観からの予想外の一撃なわけで、
それは既存の価値観や予想の想定内の作品を打ち破って初めてなされます。
真の傑作とは自分の理想を貫くことによって出来るとも言えるかもしれません。

と、ここまで書くと一部で言われる様なアンチ不要論・批評否定論のようになってしまいますが、
中上健次の過激な発言を押し通して作品を作り出せる人、ましてそれでホントに傑作を作ってしまう人が、
果たして世界にどれくらいいるかという疑問が残ります。
批評・感想はものさしにすぎないとしても、現在位置を量るコンパス、あるいは高度計のようなもので、
他人の声を無視して作るという事は自分の作っているものに対する客観的な視点をなくすことでもあり、
ある意味かなり大きな賭けに出ることになります。
プルーストやジョイスといった人達はその賭けに勝ち、傑作をものにしたわけだけど、
その影には駄目ジョイスや駄目プルーストは沢山いるはずです。
「俺の作品は凄いんだぜー。他人はそれを評価しないけど。でも俺自身は判ってる。すごいんだぜー」
そんな妄言を吐く駄目中上は掃いて捨てるほど世の中にいます。
十年引きこもって執筆したプルーストにしてもその行為が評価されるのは
実際に書き上がった作品が素晴らしかったからであり、
もしも駄目駄目な作品だった場合はただの駄目人間ということになってしまっていたでしょう。
自分では理想通りの傑作を作ったつもりが、どうみても駄作にしか見えない作品。
文学に限らず、そういった傑作になり損ねた駄作で芸術の歴史はなりたっています。
むしろ傑作とは常に駄作スレスレの中で生まれるのかも知れません。

さて今回の主題である「どこまで制作者は観覧者を意識し、どこまで制作者のエゴで作るべきか」という問題。
どちらかに傾きすぎてしまっても理想か客観性を失い、作品の面白さは失われてしまう。
そしてそのさじ加減もまた作者にゆだねられているわけです。
どこからセーフであり、どこからアウトであるか。
それを見極めるのには2つの要素があると思います。
1つはある程度自分の作品を客観的に観る目。
自分の作品に対して批評的な視点で観る事が出来る批評眼を優れた作者は大抵持っています。
自分の作品を他人が観るかの様に見ることができて、常に自分の立ち位置を確認できるのであれば、
理想めがけて一直線という無茶な航海にもコンパスが存在することになります。
とはいうものの、自分の作品に対して客観視することは非常に難しく、
まして未だ完成していない作品の全体像を観る事などは不可能なわけで、
実際には見切り発車で作ってしまうしかない部分があります。
したがって2つめに必要なのは中上の言うとおり、「自分の理想を信じる強さ」だと思います。
他人の声を訊きつつも、自分の目というコンパスを信じてただ宝の島を目指す。
そんなグングニルな強さを持つ事。
懐かしい言葉を使わせてもらえば「己のセンスを信じて」ある程度、
暴走気味に自分の理想を追うこともまた必要なのではないでしょうか。

作る事、表現する事とは、どこかやはりギャンブル的要素があります。
客観性と理想、つまり「人に見られる事と自分の理想」のバランスをうまくとって、
着地点を見つけた作品が面白いとはかぎりません。
さきほども述べた様に傑作とは常にギリギリで駄作になり損ねたものをいうわけで、
そのチャレンジを繰り広げてゆくことが「作る」という行為なのではないでしょうか。
非常に今更な意見ですが、第二回紅白の「己のセンスを信じて」というコピーは
制作者の冒険心を受け止めるアマチュアのためのイベントとして良かったと思います。
せっかくの自由度が高い、web上での作品発表なのだから、
個人的にはもっと冒険心に満ちた俺様オンリー面白作品が観てみたい。
と、そんな無茶な事を言って今回のコラムは終わります。
石投げないで。
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# by bungeisai | 2005-10-24 00:28 | 第四回コラム

第三回コラム

第三回コラム「Flash作品と感想」



主催が何を考えたかこの時期に東京に飛んでるということで
留守番を任されたサポートのみずあみといいます。初めまして。

突然ですが、小学校の時分に夏休みの宿題で苦労させられたモノの一つに
読書感想文があります。課題図書なりなんなりを読まされては
原稿用紙○枚を埋めてこいという感じの。

よく思うんですが、あれって誰のためだったんでしょう。
課題図書の著者自身に届くことはきわめて稀(むしろ考えにくい)、
教師がその感想文を読んでも生徒にフィードバックされるのは成績くらい、
感想文を書く生徒自身も宿題として嫌々ながらに文章のようなものを書くにすぎない。
ここまでいくとちょっとネガティブに考えすぎでしょうか。

一方で、Flash作品の特徴の一つとして、作品が主にインターネット上で公開されるため、
作者に生の感想が届きやすいという点があげられます。
その場や方法は2chの掲示板上でもよし、作者に直にメールを送ることでもよし。
誰もが作り手(発信者)にまわることができるというインターネットの特性が
逆の方向にうまくまわっている例だと思います。

特にFlash作品への長文批評はFlash・動画板では「アンチ」と呼ばれ、
同掲示坂内で専用のスレッドが作られるほどの需要とフィールドがありました。
しかしながら、需要があるにもかかわらず、長文での感想、いわゆる「良アンチ」というものが
なかなか日の目を浴びず、多くないという現状もあるのではないでしょうか。

文藝動秋、三回目となる今回は、Flash作品とその感想にまつわるこうした状況に関して、
Flashの作り手・感想の書き手の双方からのお話をご紹介します。

今回も2部構成で参ります。前半では文藝祭主催のよみとばし氏と、
www.psychedesire.org のhmtbsmvさんに語っていただきたいと思います。
それではどうぞ。



追記: 後半として、Rouxさん、唯樹さん、ハリジャンぴらのさんのコラムを追加しました。
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# by bungeisai | 2005-10-10 02:00 | 第三回コラム

第三回コラム

Rouxさんのコラム



flash作品と感想

感想文…
昔から国語の授業などで感想文を書くことはあったけど
基本的に苦手だったのを思い出します。

今回のテーマ『感想文』についてですが、
わたくしは昔から話す言葉や感想を述べる時
回りくどくなってしまって結果的に長文になってしまう、
という弱点があるのでございます。

長文の感想文と一言感想。
FLASHを作られる方にとってはどちらが読みたいというのは
人それぞれだと思うのですが長文だからいい、
というものでもないと思うのです。

今回のテーマにも掲げられている
過去に『アンチ』と呼ばれた長文たちは
感想、というより批評に近いと思うのです。
この部分はこうしたほうがよかったのではないか、とか
ここにこうやって付け加えたのも見たい、とか。
これは感想じゃなくてアドバイスのような気がするのです。

では感想文って?
それは作品を1本見て、思ったことを素直に言う事。
この部分が気に入った、とか、この映像綺麗、とか。

先ほどまで、本日開幕した『MMR』という
イベントに出品された作品を拝見していたのですが、
このイベントなら『メガネっ子に萌えた』とか
『お姉さんの和服姿にドキドキした』とか。
これが感想文なら、一言感想、ということになるのでしょうが
長文の感想文となると、心理描写や作品を掘り下げて、
それに対して自分が思うことを書く。

的確な文章が書ける人間になりたい、と常日頃思います。
日々精進していかなければなりませんね。
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# by bungeisai | 2005-10-10 01:58 | 第三回コラム

第三回コラム

唯樹 只埜さんのコラム



ボクハ、カンソウヲ、カイタコトガ、アリマセン。

感想ね。
欲しいよね。
製作者であれば。
うん。

けどね。
貰えないよね。

最近はFlashに興味を持った一般の方々が多くて、
結構作品を出すとBlogとかで紹介してくれてたりします。
拙作ですら幾つか頂けていたので、
最近はそういう方向での感想が多いんじゃないでしょうか。

(知りたいけど解らないって人はアクセス解析ついてる鯖にするとか、
諦めて忍者使うとかしましょ。
いいじゃない。どういう所から人がきたかって知りたいよ。普通。)

感想スレは死んでるしね。
スレに作品投下したって、まぁ5個レスがつけば上々じゃないでしょうか。

さて。
Flash製作者にとっての「感想」ってなんでしょう。
一言褒められる事?長文感想貰う事?アンチされる事?
難しい所ですよね。
俺にとっての感想は「〇〇」だ!
と言い張れる人は少ないんじゃないかと思います。

まぁ確かに「すげぇ!」とか「かっこいいです><」とか「どう見ても精子です」
とか一言感想だけ貰い続ければ長文が欲しくなるだろうし、
かと言ってずっと長文アンチがつけばやる気もなくす。
狙ってやった事を理解されなかったり(なつみSTEPは理解された好例だいね)
見当はずれの感想を貰ったりもする。

そんなこんなで「なんで俺作品作ってんのに、こんな事言われてんだろ?」
みたいな思考に陥る事もあるんじゃないでしょうか。

けどね、最終的には思うんです。
どんな言葉でも、作品に興味持ってもらえれば嬉しいのかなーとか。
一言レス、掲示板への書き込み、面白いよ!格好いいよ!っていうBlogでの紹介。
或いは長文カキコ、アンチ。
見られてなんぼでしょ。
見てくれて、尚且つそれを自分の言葉で表現しようとしてくれただけで御の字で
しょ。

よく作品を「自分の子供のように」などと形容するけど、
子供を「可愛いね」って一言褒めてくれる人も、
「〇〇君は落ち着きがない所があります」と指摘してくれる人も、
それはそれで一つの意見なわけで。

どう取り、どう生かすかはその人次第なんじゃないかなぁ、とかね。
んで、それを上手く形作って作品としてまた表現すれば、
自然と感想も長くなるんじゃないかと思いますよ。

結局感想というのは作品ありきでしか語れない訳ですから。
是非とも「感想を書かずにはいられない」作品を作って欲しい、
作っていきたいと思います。

とまぁ(途中の文脈はさりとて)上手く纏めたような気になった時点で3回目。
感想を書く人を援護してるわけではなく、一製作者としての感想。
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# by bungeisai | 2005-10-10 01:57 | 第三回コラム