<   2005年 10月 ( 26 )   > この月の画像一覧

第四回コラム

ワシ@部屋長さんのコラム(2)



5、クリエイティブの目的とその達成

さて、「クリエイティブ」というものの意味をごく簡単に追ってみましたが、ここで「クリエイティブ」というものが発生する根源的な理由・目的について考えてみたいと思います。

先ほど「クリエイティブは伝達である」というお話をさせていただきましたが、伝達であるからには伝える理由があるはずです。
みかんジュースをつくってもらおうとしたAさんも、また表現する理由があったはずです(例えばのどが渇いていた、など)。
ではクリエイティブが目指すところの目的には、どのようなものがあるのでしょうか?

既存メディアをかんがみると、例えば2の項でも書きましたが、テレビであれば「CMを見せるための呼び水的意味」と「お金を出す主体に有益である情報を提供する」という2つの理由があります。
おそらく多くのメディアがこのパターンの目的を持ちクリエイティブが行われていると思います、つまり前者は「クリエイティブにより別の何らかの目的を達成する(間接的訴求)」、後者は「益に対しそれに対価するクリエイティブを提供する(直接的訴求)」と言い換えられると考えられます。

仮に2や3の項で書いたような「観覧者を意識する必要性がない」という仮説を考えない上で、これを現状の「アマチュアがアンダーグラウンド的なネットの表現の場で行っている個人製作の動画」の世界に当てはめると、どんな目的が見えてくるのでしょうか。

例えば「間接的訴求」でいえば、「アフィリエイト広告をクリックしてもらうための宣伝としてコンテンツを作る」や「アクセス解析・リファラ等によるマーケティングデータの採取」「別のジャンルやフィールドでのクリエイティブの前に行うテスト(β版的意味合いも含め)」「有料コンテンツへの展開に向けて、宣伝効果をねらったコンテンツ提供」などが考えられると思います。

またFlashコミュニティーという意味合いでは、「広くコミュニケーションを行うための題材・きっかけとして作る」「手軽に自分の表現能力を試せる場として、内省的な意味で自身を知るために表現を行う」「小さな箱の中で『もてはやされる』喜びを味わうために作る」といったことが考えられます。
さらに類似したマス・メディアへの転化として「プロフェッショナルになるためのきっかけ・箔付け。あるいは、あわよくば既存メディアの登竜門的コンテストで入賞したり、偶然ネットで作品を見かけたプロデューサーなりディレクターなりに拾ってもらうための作品提示」を目指し作るという見解も出来るかと思います。

一方「直接的訴求」はアマチュアメディアではまだあまり広がっていないのかもしれませんが、「コンテンツを有料化し提供する」「企業等のコンセプト広告として何かしらの表現をする」「有料イベントにバックマージンの代価として作品と提供する」などが挙げられるかと思います。

いずれにせよクリエイティブには明確な理由があり、それを満たすためのレスポンスを得たいと思うものです。
逆に言えば、観覧者はその表現者からの訴求に対し、望むべき結果を与えてやってよいのか、あるいはそれ以上の評価を与えるのか、反対にそれ以下の評価を下すのか、全ての裁定の基を担っています。
その意味で、先ほど申し上げましたとおり表現者は観覧者に対して、より望む結果を得られるような形で情報を提供する必要があります。
例えば「何かしらのコンテストに発表したいと考えている作品を一般公開し、修正点をあげてもらいたい」という欲求から作品を公開しているのであれば、より多くの、確かなレスポンスを得られるためにその旨を伝え、この部分のこの動きが肝であり、こういった部分を提案したい、と提示する場においてどこかで伝えるべきかと思います(あるいは伝えないことにより「何の情報もなく理解できるか」という確認もできるかもしれませんが)。

もちろんこれは、コンテストに出す、というケースのみの例ですから、他のあらゆる目的に対し共通の要件ではありませんが、何にしても表現者は表現を行う前に、レスポンスを得られるためにやるべきことを意識し、その後で改めて表現の向上について意識すべきかと思います。
制作時間や目標などの情報以外にも、作品自体の属性(自分の作品がプロのメディアに近いものを目指し作られたものなのか、あるいは寺山修司的な実験動画を目指して作られたのか)や、自分の作品に求められるレベル(何かしらのビジネス展開をしたいのでそれに見合うだけの表現になりえているのか、あるいはそうではないので気軽な視点で見てもらいたいのか)、その意思表示は必要に応じてすべきです。
もちろん隠しておくべきは隠しておいて良いかと思いますが、それが表現の邪魔をするようでしたら、「レスポンスを得たい」という目的の元行われる表現活動の原理を考えれば本末転倒です。

これらの、「クリエイティブの目的とその達成」に必要なこととは何かを考えることが、おそらくクリエイティブを行う者の最低限の「自分の作品に対する思いやり」かと思います(表現者の作品は作品を提供した段階で表現は表現者のものではなくなるわけですし……)。


6、「観覧者を意識して作品を作る」ために

さて本題です。
観覧者を意識した、具体的な作品作りの方法とはなんでしょう?
上記で述べてきました「発信者」としての義務や目的を補完しうる要件といった内容はもちろんのこと、肝心のコンテンツが十二分に「表現」として成立するものでなければ、結局は得たいレスポンスは得られないものになってしまいます(いわば聾唖的なクリエイティブは厳禁ということです)。

その表現として成立させるためのテクニックですが、おそらく基本的な要素は皆さんご承知の通りです。

文章であれば見る側がきちんと読める尺をとる(実際動画コンテを作ってみて、自分でも十分読める尺か確認してみるのがベターですね)。
ショートムービーの場合、音楽の同期なども重要かもしれません。
音の区切れにカットを変えるなどの同期の取り方はもちろん、曲の印象に合わせシーンを変更する等も、観覧者に対して耳から直感的にストーリーを汲み取ってもらうために有効な手段かと思われます。

Flashというツールの特性を使うのも面白いかもしれません、スクリプトを組みゲーム的な要素を加えてみる、ボタン操作でストーリーを文節に分けて展開、隠しボタンで別の内容を挿入、などなどwebを意識して作られているFlashだからこそできる表現もまた、観覧者に驚きを与えるひとつの要素になりえるでしょう。

それから、これらの部分部分の気遣いのほか、全体を通してより「表現」として面白いものを提示する努力も必要です。
例えばそれはメリハリをつける、といったことかもしれません。
ストーリーの起承転結、というのは使い古された言葉ですが、一連の流れとしてコンテンツを見せるということを常に意識する必要はあるかと思います。
最も見せたいシーンをより引き立たせるためにはどうするか、起であったり転であったりどこかのシーンだけがむやみに長くなっていないか、尺の長さ短さは適切か、視覚効果はうまく働いているか、自分が表現したいことを過不足なく表現できているか……。
さまざまな要素が挙げられるかと思います。

ただ、ネットでアップするコンテンツを作る上で何より重要なことがもうあります、それは「Flashの再生中にウィンドウを消されないこと」です。
「そんなの当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、はたして(僕も含め)多くのFlash製作者は本当に「途中で消されない」ための努力を十二分にしているでしょうか?
ウェブはいわゆる3秒ルール(5秒ルールという人もいますが)があります、あるページを見たときに「そのページを見る必要がない」と判断するまでの時間です。
ネットのバナー広告は基本、このルールにのっとり、「つかみ」に非常にこだわっています。
まずは結論(何がどのくらい特になったのか)やインパクト(センセーショナルなコピーライティングの提示)を表現し、そのページ内に観覧者をとどめる努力をします。

例えばローディング中、程度の低い画像が出ていた場合、観覧者はどうするでしょうか?
そのローディング画面だけで作品全体のクオリティを想像し、画面を消してしまうかもしれません。
実体験として、ものの数秒Flashを見ただけで別のページに飛んだ、という方は少なくないかと思います。

これは単に「数秒見ただけで全容が判断できたので見るのをやめた」と安易に判断してしまってよいのでしょうか?
僕はこういう話をするときによく引っ張ってくる言葉で、メディア論の大家、M・マクルーハンの「メディアのそのものがメッセージだ」という話を挙げます。
マクルーハンが言うには、各メディアはそのコンテンツ内容奈何ではなく、メディアの性質そのものが観覧者にメッセージを投げかけているというのです。
この見地で、例えば映画というメディアを考えると(マクルーハンの説とは異なった見解になりますが)、コンテンツ内容を詳しく確認することなくお金を払い、中に入って初めて実際のコンテンツに触れることが出来ます。

そこには「最低限面白いものが見られる」というある種の信頼関係があるから成立するものなのですが、仮に面白くなくても先払いであり「途中で出にくい環境(暗闇であり、ゆったりとしたシート席)」のため、とりあえず多くの人が最後まで見ることになるはずです。
こういった環境下であれば、大げさに言えば最後5分だけが圧倒的にすばらしい内容であっても客を満足させうる可能性もあるということです。

一方ネットというメディアはその特性上、「すぐにページの移動が出来る」「途中観覧をやめるデメリットが乏しい」という以外にも「無数のコンテンツがある(ニュースサイトなどを見れば一日何十本という新作が出ている)」ため、観覧者は早い段階でその作品に対する評価を決めてしまいがちになると考えられます。
(ただ一方で、今回の文芸祭のように、コミュニティ内で大いに作品評価や批評が盛り上がるイベントであれば、「最後まで見なければ話題に入れない」と観覧者が感じることで最後まで見る可能性も高くなります。その場合は思い切った構成の動画を作るのも手かもしれません)。

そういったメディア自体が持つ特性も意識し、最適な表現をすることが、「観覧者を意識して作品を作る」上で重要かと思います。


8、コミュニケーションで磨かれるもの

さて以上、実にざっくりと、思いついたことをそのまま羅列してきましたが、はじめにも言いましたとおり何も堅苦しく色んなことを考えず作るのも一興かと思います。
結果から目的を生み出す、というのもままありかとも思います(昔の学生運動的に言えば「体制から行動が生まれるのではなく、行動から体制が生まれるのだ」といったところでしょうか)。

ただ一方で、クリエイティブはそれそのものに多くの示唆と教示にとんでいます。
作り手、受け手に関わらずそれに関わること自体に、多くの思考的向上性が含まれています(なぜならクリエイティブとは文化そのものだからです)。

インターネットのクリエイティブは、基本的に表現者と観覧者を結びつける接点は、ネット上のコミュニケーションツールになります。
その中で何を発露するのか、あるいはレスポンスとして何を投げかけてあげるか、それはとりもなおさず自分自身の向上につながると思います。
存在する情報を屈指し、より良いものを作り、よりよいレスポンスを与える、ネットのコミュニケーションの中で磨かれていけば、よりよいクリエイティブが作られる土壌が出来るのではないかと思います。
[PR]
by bungeisai | 2005-10-24 00:31 | 第四回コラム

第四回コラム

hmtbsmvさんのコラム



> 「観覧者を意識して作品を作ることについて」
>
> 作品を公開するということは、同時に作品を誰かに見て貰うことを意味し、
> この際に「制作者と観覧者」という、作品をめぐる二つの層ができあがります。

まぁそうですねー。

> 作品を見て貰うために、見る側を例えば「喜ばせる」……
> 「見る側の求めるような」作品を提供する……
>
> このように観覧者のことを意識しだしたとき、

意識しなければいいでしょう。

> 作品制作には、エンタテインメント性の向上や制作スタイルの限定など、
> 良い影響も悪い影響も起こりうるのではないでしょうか。

どうだろうね。
『この製作者はこういうものを作るだけの人』と思われるのが嬉しいんなら、
そのままでもいいんじゃない?

> 今回は、こうした「制作の上での観覧者の存在」について論じて頂きたく存じます。
> 前回の「作品をめぐる観覧者としての感想のあり方」と絡めて議論していただいても、
> また個別に話をしていただいても構いません。

終わりました
[PR]
by bungeisai | 2005-10-24 00:30 | 第四回コラム

第四回コラム

唯樹 只埜さんのコラム



「観覧者を意識して作品を作ることについて」

うん。俺意識したことないよ!

作品って自己満じゃないの?
閲覧者?何それ食える?(ここまで前提)

という事で。

いつも通り、真面目な文章は他の方々に任せるとして、
作品ってさ、何回も言われてるようにオナニーじゃない。
自分の作りたいもの作って、晒して、ちょっとでも見てもらえば儲けもん、
みたいなね。

いきなりテーマからは離れるんですが、
最近「見てくれるか心配」だとか「楽しんでもらえるだろうか」とか
素っ頓狂な事考えて一人で勝手に悩んでる人を見かけたりします。
作品っつーか、ほぼあらゆる芸術作品(商用除く)って、
作者→受け手への一方通行な訳で。
そこに「理解」だとか「疑問」だとかの受け手側の思いなんざ一切関係ないわけです。
(まぁFlashを「芸術作品」の中に包括していいのかは甚だ疑問だが)

まぁ作り手としては感想が欲しかったり、何らかの感動を起こさせたかったりはしますが、
それはあくまで副次的な産物でしかないと個人的には思ってます。
セグメントした対象と、選んだモチーフにもよりますが。

「MM」のようなイベントでは作品の特質が問われる訳だから、
観覧者に対してどうこう、というスタンスになるとは思います。

さて、ここまでは「内面」的な部分。

唯一「観覧者」を意識する事があるとするなら、
「外面的」な技術の部分。

つまり、文章系なのに文章の色とかタイミングとか背景色との色合いを考えてない、
とかは論外。(意図があって見せにくくする場合は別)
特定の環境でしか見れなかったり、特定の制約を設けるのも、まぁどうかという所。

それは製作者のエゴ、或いは怠慢でしかないと思います。

そこは「WEB作品」として、思いやりを持つべき部分ですかね。

と、まぁ文藝祭実行委員会側の述べさせたい思惑を一切無視して4回目。
[PR]
by bungeisai | 2005-10-24 00:29 | 第四回コラム

第四回コラム

ハリジャンひらのさんのコラム



ホントに文芸祭まであと少しとなって参りました。
あと二週間もすると始まるのかと思うと、「え? マジで? あとそんなもん?」とか思います。
マジであとそれしかないんだなあ。
あ、え、順調に準備は進んでますよ、きっと。

そんな話はさておき。
flashを作る事と観てもらうことについてのお話。
最初に言いきってしまうのも恐縮ですが、「flashを作る事」と「公開して観てもらう事」は
行為としてイコールとはいえません。
なぜかというとflashというのはジャンル名でも形式名でもなく、手法というか手段の名称でしかないわけで
flashを作る事とその作ったflashを何に使うかは結びつかないからです。
つまり「これを観る人に伝えよう」「こういう映像美を魅せよう」といった目的意識を持って制作されて
初めてflashは目的を持つ映像となるわけで、手法その物にはなんの目的もないということです。
言うなればflashはなんの模様もない器のようなもので
制作者が自由にそこに盛りつける事ができるといった感じでしょうか。
flashは所詮道具でしかありません。
したがって「観られる事を意識する」というのは「この思いを伝えたい」「こういう映像で魅了したい」
などいう目的意識を持って「観られる事を前提に制作」されて初めて意味があるわけです。
非常に当たり前のお話。
逆にいってしまえば意識しなければ、全く他人の目を気にしない
俺様オンリー面白作品を作ってしまうこともいくらでもできるわけです。

「人に観られる事を意識して作る・作らないは作者の選択次第」
前置きが長くなりましたが、それがまず前提です。
では「どこまで制作者は観覧者を意識し、どこまで制作者のエゴで作るべきか」という今回の本題に入りましょう。
あ、ちなみにこれは「商業的目的=プロの仕事ではない、個人的趣味の制作である」という
前提があります。
商業的に作られる、プロの仕事としてのflashの話はまた別のお話なので悪しからず。

さて、これはflashだけに限らず表現というものをやる限りについてまわる難しい問題です。
客観的に観られる事を意識しない製作物というのが、作者の独りよがりに終わる危険性がありますし、
観覧者を意識しすぎて、自分の作りたいものの理想から遠ざかってしまうのも本末転倒。
どこからセーフでどこからアウトか。
このバランスを如何にすべきは文学の世界なんかでも延々と議論されていたりしますが、
明確な答えは出ていません。

ちょっと小説のお話をします。
20世紀の文学を語る上で外せない金字塔的な作品の一つに
マルセル・プルーストという人が書いた「失われた時を求めて」という小説があります。
この作品は近代文学の築いてきたものを踏襲した上で、新たなる表現を生み出した、
最初の「現代文学」と呼ばれる名作なのですが、
プルーストはこの作品を他人との交流を全く断って、田舎に引きこもり、
コルク張りの書斎で十年かけて執筆しています。
観覧者を意識するということは他人の評価を意識する事でもあります。
プルーストはあえてそれを無視するというかなり強引な態度で自分の理想だけを追求して書いたわけです。
感想や他人の評価といった作品に向けられる言葉はその作品の善し悪しを量るものさしではあるものの、
作品の絶対的価値を表すわけではありません。
前回のコラムにも書きましたが、感想や批評といった「作品について語ること」とは、
すでに完成された作品に対して後追い的に再現してみせる行為でしかなく、
「過去」を語ってみせることはできても、未来を見いだす事は構造上難しいといいざるえません。
前回引用した蓮実重彦の「言葉は絶えず敗北する」という発言の真意も、批評というジャンルの限界を示したものでしょう。
ある程度のものさしにすぎないと言い切るのもアレですが、そういう側面は無視できないと言えるでしょう。
プルーストの例だけでなく、外界の声を無視し自分の理想を追い求めた小説家というのは
文学史をひもとけばいくらでもいるわけで
かの中上健次も「全世界を敵に回してでも自分の理想を貫け」と過激な発言をしているし、
J・ジョイスにしても、H・メルヴィルにしても世間の評価との対立の中で執筆をしています。
歴史に残る傑作、大きな衝撃を残した作品とは大抵において、未だ見ぬ価値観からの予想外の一撃なわけで、
それは既存の価値観や予想の想定内の作品を打ち破って初めてなされます。
真の傑作とは自分の理想を貫くことによって出来るとも言えるかもしれません。

と、ここまで書くと一部で言われる様なアンチ不要論・批評否定論のようになってしまいますが、
中上健次の過激な発言を押し通して作品を作り出せる人、ましてそれでホントに傑作を作ってしまう人が、
果たして世界にどれくらいいるかという疑問が残ります。
批評・感想はものさしにすぎないとしても、現在位置を量るコンパス、あるいは高度計のようなもので、
他人の声を無視して作るという事は自分の作っているものに対する客観的な視点をなくすことでもあり、
ある意味かなり大きな賭けに出ることになります。
プルーストやジョイスといった人達はその賭けに勝ち、傑作をものにしたわけだけど、
その影には駄目ジョイスや駄目プルーストは沢山いるはずです。
「俺の作品は凄いんだぜー。他人はそれを評価しないけど。でも俺自身は判ってる。すごいんだぜー」
そんな妄言を吐く駄目中上は掃いて捨てるほど世の中にいます。
十年引きこもって執筆したプルーストにしてもその行為が評価されるのは
実際に書き上がった作品が素晴らしかったからであり、
もしも駄目駄目な作品だった場合はただの駄目人間ということになってしまっていたでしょう。
自分では理想通りの傑作を作ったつもりが、どうみても駄作にしか見えない作品。
文学に限らず、そういった傑作になり損ねた駄作で芸術の歴史はなりたっています。
むしろ傑作とは常に駄作スレスレの中で生まれるのかも知れません。

さて今回の主題である「どこまで制作者は観覧者を意識し、どこまで制作者のエゴで作るべきか」という問題。
どちらかに傾きすぎてしまっても理想か客観性を失い、作品の面白さは失われてしまう。
そしてそのさじ加減もまた作者にゆだねられているわけです。
どこからセーフであり、どこからアウトであるか。
それを見極めるのには2つの要素があると思います。
1つはある程度自分の作品を客観的に観る目。
自分の作品に対して批評的な視点で観る事が出来る批評眼を優れた作者は大抵持っています。
自分の作品を他人が観るかの様に見ることができて、常に自分の立ち位置を確認できるのであれば、
理想めがけて一直線という無茶な航海にもコンパスが存在することになります。
とはいうものの、自分の作品に対して客観視することは非常に難しく、
まして未だ完成していない作品の全体像を観る事などは不可能なわけで、
実際には見切り発車で作ってしまうしかない部分があります。
したがって2つめに必要なのは中上の言うとおり、「自分の理想を信じる強さ」だと思います。
他人の声を訊きつつも、自分の目というコンパスを信じてただ宝の島を目指す。
そんなグングニルな強さを持つ事。
懐かしい言葉を使わせてもらえば「己のセンスを信じて」ある程度、
暴走気味に自分の理想を追うこともまた必要なのではないでしょうか。

作る事、表現する事とは、どこかやはりギャンブル的要素があります。
客観性と理想、つまり「人に見られる事と自分の理想」のバランスをうまくとって、
着地点を見つけた作品が面白いとはかぎりません。
さきほども述べた様に傑作とは常にギリギリで駄作になり損ねたものをいうわけで、
そのチャレンジを繰り広げてゆくことが「作る」という行為なのではないでしょうか。
非常に今更な意見ですが、第二回紅白の「己のセンスを信じて」というコピーは
制作者の冒険心を受け止めるアマチュアのためのイベントとして良かったと思います。
せっかくの自由度が高い、web上での作品発表なのだから、
個人的にはもっと冒険心に満ちた俺様オンリー面白作品が観てみたい。
と、そんな無茶な事を言って今回のコラムは終わります。
石投げないで。
[PR]
by bungeisai | 2005-10-24 00:28 | 第四回コラム

第三回コラム

第三回コラム「Flash作品と感想」



主催が何を考えたかこの時期に東京に飛んでるということで
留守番を任されたサポートのみずあみといいます。初めまして。

突然ですが、小学校の時分に夏休みの宿題で苦労させられたモノの一つに
読書感想文があります。課題図書なりなんなりを読まされては
原稿用紙○枚を埋めてこいという感じの。

よく思うんですが、あれって誰のためだったんでしょう。
課題図書の著者自身に届くことはきわめて稀(むしろ考えにくい)、
教師がその感想文を読んでも生徒にフィードバックされるのは成績くらい、
感想文を書く生徒自身も宿題として嫌々ながらに文章のようなものを書くにすぎない。
ここまでいくとちょっとネガティブに考えすぎでしょうか。

一方で、Flash作品の特徴の一つとして、作品が主にインターネット上で公開されるため、
作者に生の感想が届きやすいという点があげられます。
その場や方法は2chの掲示板上でもよし、作者に直にメールを送ることでもよし。
誰もが作り手(発信者)にまわることができるというインターネットの特性が
逆の方向にうまくまわっている例だと思います。

特にFlash作品への長文批評はFlash・動画板では「アンチ」と呼ばれ、
同掲示坂内で専用のスレッドが作られるほどの需要とフィールドがありました。
しかしながら、需要があるにもかかわらず、長文での感想、いわゆる「良アンチ」というものが
なかなか日の目を浴びず、多くないという現状もあるのではないでしょうか。

文藝動秋、三回目となる今回は、Flash作品とその感想にまつわるこうした状況に関して、
Flashの作り手・感想の書き手の双方からのお話をご紹介します。

今回も2部構成で参ります。前半では文藝祭主催のよみとばし氏と、
www.psychedesire.org のhmtbsmvさんに語っていただきたいと思います。
それではどうぞ。



追記: 後半として、Rouxさん、唯樹さん、ハリジャンぴらのさんのコラムを追加しました。
[PR]
by bungeisai | 2005-10-10 02:00 | 第三回コラム

第三回コラム

Rouxさんのコラム



flash作品と感想

感想文…
昔から国語の授業などで感想文を書くことはあったけど
基本的に苦手だったのを思い出します。

今回のテーマ『感想文』についてですが、
わたくしは昔から話す言葉や感想を述べる時
回りくどくなってしまって結果的に長文になってしまう、
という弱点があるのでございます。

長文の感想文と一言感想。
FLASHを作られる方にとってはどちらが読みたいというのは
人それぞれだと思うのですが長文だからいい、
というものでもないと思うのです。

今回のテーマにも掲げられている
過去に『アンチ』と呼ばれた長文たちは
感想、というより批評に近いと思うのです。
この部分はこうしたほうがよかったのではないか、とか
ここにこうやって付け加えたのも見たい、とか。
これは感想じゃなくてアドバイスのような気がするのです。

では感想文って?
それは作品を1本見て、思ったことを素直に言う事。
この部分が気に入った、とか、この映像綺麗、とか。

先ほどまで、本日開幕した『MMR』という
イベントに出品された作品を拝見していたのですが、
このイベントなら『メガネっ子に萌えた』とか
『お姉さんの和服姿にドキドキした』とか。
これが感想文なら、一言感想、ということになるのでしょうが
長文の感想文となると、心理描写や作品を掘り下げて、
それに対して自分が思うことを書く。

的確な文章が書ける人間になりたい、と常日頃思います。
日々精進していかなければなりませんね。
[PR]
by bungeisai | 2005-10-10 01:58 | 第三回コラム

第三回コラム

唯樹 只埜さんのコラム



ボクハ、カンソウヲ、カイタコトガ、アリマセン。

感想ね。
欲しいよね。
製作者であれば。
うん。

けどね。
貰えないよね。

最近はFlashに興味を持った一般の方々が多くて、
結構作品を出すとBlogとかで紹介してくれてたりします。
拙作ですら幾つか頂けていたので、
最近はそういう方向での感想が多いんじゃないでしょうか。

(知りたいけど解らないって人はアクセス解析ついてる鯖にするとか、
諦めて忍者使うとかしましょ。
いいじゃない。どういう所から人がきたかって知りたいよ。普通。)

感想スレは死んでるしね。
スレに作品投下したって、まぁ5個レスがつけば上々じゃないでしょうか。

さて。
Flash製作者にとっての「感想」ってなんでしょう。
一言褒められる事?長文感想貰う事?アンチされる事?
難しい所ですよね。
俺にとっての感想は「〇〇」だ!
と言い張れる人は少ないんじゃないかと思います。

まぁ確かに「すげぇ!」とか「かっこいいです><」とか「どう見ても精子です」
とか一言感想だけ貰い続ければ長文が欲しくなるだろうし、
かと言ってずっと長文アンチがつけばやる気もなくす。
狙ってやった事を理解されなかったり(なつみSTEPは理解された好例だいね)
見当はずれの感想を貰ったりもする。

そんなこんなで「なんで俺作品作ってんのに、こんな事言われてんだろ?」
みたいな思考に陥る事もあるんじゃないでしょうか。

けどね、最終的には思うんです。
どんな言葉でも、作品に興味持ってもらえれば嬉しいのかなーとか。
一言レス、掲示板への書き込み、面白いよ!格好いいよ!っていうBlogでの紹介。
或いは長文カキコ、アンチ。
見られてなんぼでしょ。
見てくれて、尚且つそれを自分の言葉で表現しようとしてくれただけで御の字で
しょ。

よく作品を「自分の子供のように」などと形容するけど、
子供を「可愛いね」って一言褒めてくれる人も、
「〇〇君は落ち着きがない所があります」と指摘してくれる人も、
それはそれで一つの意見なわけで。

どう取り、どう生かすかはその人次第なんじゃないかなぁ、とかね。
んで、それを上手く形作って作品としてまた表現すれば、
自然と感想も長くなるんじゃないかと思いますよ。

結局感想というのは作品ありきでしか語れない訳ですから。
是非とも「感想を書かずにはいられない」作品を作って欲しい、
作っていきたいと思います。

とまぁ(途中の文脈はさりとて)上手く纏めたような気になった時点で3回目。
感想を書く人を援護してるわけではなく、一製作者としての感想。
[PR]
by bungeisai | 2005-10-10 01:57 | 第三回コラム

第三回コラム

ハリジャンぴらのさんのコラム



文芸祭も出場者が発表されて徐々に盛り上がってきました。
ぴろぴとさんの出場に話題が集まってますが、
個人的には未だ見ぬ新人さんたちや普段見る機会のない職人さんが
どんな作品を放り込んでくるかも楽しみだったりします。
イベントってこういう予想外の良作に出会う機会でもあると思っとります。
運営としてだけでなく、ただのflash好きとしても楽しみな文芸祭まであと一カ月。

そんなわけで今回は「flashと感想」のお話。
これでも感想は専門分野というかこれで名前を売った立場なわけで
今回はちょいと長く書いてみたいと思います。

おいらは毎年、自分のサイトで紅白の全作品感想を書いているわけで、
感想書く側の人間なわけですが、これが意外とプレッシャーだったりします。
人様が時間と魂削って作った作品にあーでもないこーでもないと
したり顔で意見を言うというのがなんとも心苦しい。
しかも遠い立場にいるプロが作った作品にケチをつけるというのではなく、
わりと近い位置にいて自分が書いた感想を本人が読む可能性がある状況下で
あえて感想を言うというのもなんとも厳しい。
良くも悪くも作る人と感想を書く人の距離が近いというのはこの世界の特徴の一つです。
いつも人様が作ったものにあれこれケチつけてしまって悪いなあと思いつつ書かせてもらってます。
実際、オフで作者さんに会った時、謝ったりもしてます。
一度ひょんなことで自分が感想書いたことのある人たちだらけな場所に紛れ込んでしまったことがあって、
その時はマジで土下座して謝ろうかと思いました。
それぐらい自分の書いている事にビビリつつ感想書いてます。

それはさておき。
かつてflash板にはアンチ統一スレッドという否定的意見をも含めてたガチンコな感想を言い合うスレッドがありました。
それが一体どんなスレッドであったか、崩壊までの経緯、
最悪板に移動した最悪アンチの機能みたいな話はまた別の機会にしますが、
皆さん、ご承知の通り、このスレは現在、元の形では存在しません。
感想系スレと呼ばれるスレッドはflash板に現在もいくつか存在しますが、
気軽にライトな感想を書くスレが細々とやっているばかりで、かつてのアンチスレのように、
忌憚ない感想や意見を言い合い、時に議論に発展するようなスレッドはもうどこにもありません。
なぜflash板では感想系が育ちにくいか。
なぜみんな感想を書かないのか、ちょっと考えてみましょう。

まず一つは感想を書くというのが思いの外、労力を割くということ。
数分間の作品に一言二言の感想ではなく、長文の感想を書くというのは実際にやってみると意外にも大変です。
気楽に観ながすのではなく、何度も見直して要点を絞りつつ書く必要があります。
なぜそう思ったか、何がそうさせているのか。
自分の感じた事を他人に伝える言葉に変換するという行為はなかなか大変です。
これまたflash板感想業界(どこにあるのか知らんけど)ではタブーとなりつつある話題ですが、
長文弥太郎氏の紅白作品感想なんかはホントにつっこんで観て書かれていて、
「こりゃ大変な仕事してるな。すげえな。偉いなあ」と思っていたら案の定と言うかなんというか中途で放置されてしまいました。
期待もあっただけに、「あーやっぱり、あれを全部書くのはきつかったか」と
同じ全感想を書いてる身として弥太郎氏に同情したりなんだり。
あれなんかホントに大変な労力をかけてやっていたと思います。
人様の作品に好き勝手言うというのは簡単そうに見えて意外と大変なのです。

第二に感想を書くという事は荒れる原因にもなるということ。
個人的感想であれ、しっかりとした批評であれ、一つの作品に評価を与えるという事は
少なからず反発が出るかもしれない意見を他人に対して宣言することであり、
実際、かつてのアンチスレも一つの作品の評価や感想を巡って大荒れに荒れることがしばしばありました。
忌憚ない感想という名目による叩きや不毛な議論も少なくなく、
匿名性の弊害として忌憚のない意見は時に暴力と変わるわけで
アンチスレでの感想をあえて見ないようにすると公言した職人さんもいました。
感想を言うというのは少なからず事を荒立てる行為であると言えるわけです。
特に2chのような匿名の形式でそれをやるのは非常に難しい。
労力を払って書かれ、かつ事を荒立てスレッドを荒し、他人を傷つける可能性さえもある。
それならば感想などという自分が思っただけのことをあえて文章にすることなどない。
それでなくとも一々自分の考えをカタチにするなんてめんどくさい行為なのだ(このコラムは実に書いててめんどくさいです)

感想を書く人が少ない理由はいろいろあるとは思いますが、
一番大きな理由はやっぱり「めんどくさいから」「書いたところでいいことなんぞないから」の二つではないでしょうか。

すでに存在する映像に対して何かを語ろうとするという行為は、
既存の映像で受けた感覚を言葉によって再現しようとする試みであり、
最初から徒労が約束されている。
映画批評家蓮実重彦も映画批評の著作の中で
「映画に向かって適当な言葉を口にすることは、不可能なのだ。
言葉はたえず圧倒的に敗北しつづける。
だとするならば何を書いても徒労に終わるほかはあるまい」
と書いています。

しかし感想を書くというのはホントに徒労でしかない行為なのでしょうか。
「感想が欲しい」「見た人の意見が訊きたい」と言う職人さんも少なからずいます。
実際、自分の書いた感想に対して「ありがとうございます」というメールを下さる方もいます。
どうやらflashに対する感想というのは作り手の需要があるようです。
「もっと感想を自由に書いてもらえるような環境があれば」と言った人もいました。

また自分がflashを見た時の感動を言葉にする事というのも大事ではないでしょうか。
おいらが毎年、紅白の全作品の感想を書く理由の一つは、文章にするという行為によって、
より深く作品と向き合う事が出来るというのがあります。
ただ流して作品を観るのではなく、何が良かったのか悪かったのかを考え、
自分が何に感動したのか、何に不満を持ったのか、それを突き詰めていくと
その作品の本質の一端に触れる瞬間というのがあります。
それはただ流して観ていた時とはまたちがうカタルシスを与えてくれます。
それに触れたくて感想を書いている、というのも理由の一つです。
たとえそれが作品への後追いという敗北であろうとも。

作り手、書き手、共に感想を書くと言う行為には徒労以上の意味があります。

現状、flash板での感想のとりまく環境はいいとは言えません。
しかしよくよく考えてみるならば感想なんていうのは別にどこでもできるわけだし、
そのスタイルにも規制はないはずです。
かつてのアンチスレは様々な自己矛盾を抱えて崩壊してしまったわけですが、
アンチスレとはまた違ったやり方で感想を延べあえる場所を作る事は可能なはずです。
「感想を書きにくい状況」などと諦めず新しい感想形態の模索が必要なんじゃないでしょうか。
感想は必要によって生まれる。それ以上でもそれ以下でもないでしょう。

と偉そうな事を言ったからには自らも動く必要があるかなあと思ったテキスト屋がここにいます。
石とか止めて。
[PR]
by bungeisai | 2005-10-10 01:56 | 第三回コラム

第三回コラム

よみとばしのコラム



「サボテンは水をあげなくても育つ」という嘘知識で
サボテンを枯らしたよみとばしです。こんばんは。

うろ覚えなので不正確ですが、過去にFLASH・動画板の
アンチ統一スレッドで、

「俺たちは芽に水を注いだり励ましたりしながら、
芽から花を咲かせるのを手助けする為に存在する。
そうやって伸びていく芽と共に成長していくんだ。」

という書き込みがあり、FLASHの創作と創作・批評の
理想的な関係を最も端的に表した言葉だと思い、今でも
深く印象に残っています。

しかし今では、花壇を荒らす人が増加するのと反比例に
芽に水を注ぐ人の数は減っているのが現状です。

個々の芽が別々の場所で成長するならともかく、同じ
花壇を共有するとしたら、芽と、お手入れする人との間に
信頼関係が無ければ、花壇から芽が出る花は、どんどん
減っていくと思います。

偉そうな事を言って何が出来たわけでも無いですが、
少なくとも、真に作品を想う感想や批評、愛のある
アンチが殆ど無く、誹謗中傷や内部事情の暴露など、
ネガティブな書き込みばかりが溢れているFLASH・動画板と
その周辺の現状を、認めたくありません。

しかし、そういった雑音を気にせず、FLASHの感想を
書ける場所も沢山あります。幾つか例を挙げれば、
FLASH・動画板に複数存在する感想を書く為のスレッドや、
FLASHを製作された方のサイトの掲示板。
時と場所さえ選べば、悪意ある書き込みに妨害されない
環境で、安心して感想を書けます。

にも関わらず、そういった感想も少ないのは何故か?

おそらく、真剣にFLASHについて語るのは、真剣にFLASHを
製作するとはのはまた違う形で多大な労力を必要とする為、
継続して感想を書き続ける人が非常に少ないからでしょう。

多くの人が継続して感想を書かない限り、感想は
たまにしか書かれなくなり、感想を書きにくい雰囲気が生じ、
また感想が減る、という悪循環につながります。

実際、上記で挙げたFLASHの感想スレを見たところ、
書き込みは1週間に1回あるかないかで、とても
閑散としており、もの哀しい気分になりました。

文藝祭は言葉のイベントです。
良質なFLASH作品だけでなく、
良質な感想、批評もお待ちしております。

貴方の水差しで、花壇に花を咲かせませんか?
[PR]
by bungeisai | 2005-10-10 01:55 | 第三回コラム

第三回コラム

hmtbsmvさんのコラム



どうも。コラムを書きます。うほ。

> 「flash作品と感想」というテーマで行います。
> 良作のflashが発表された時に頻出するflashの感想ですが、
> 一言のものは多くても、長文で様々な側面からじっくりと
> 語る感想、または、過去にflash・動画板で「アンチ」と呼ばれて
> いたような批評は、感想の需要があるにも関わらず少ないです。
>
> この現状に対して、FLASH製作者として(感想執筆者として)
> どう思うか、ご意見お聞かせ下さい。。

感想が必要かどうかは、動画作った人それぞれだから、
一概に『この現状』っつのがどう(良し悪し)かとかは知らん。
別に感想とか板に依存しないで、
友達とか親とかに見せて感想もらったっていいんだしさ。
まぁ、ネタによっては2ちゃんを知ってる人じゃなきゃ、
なんなのかすらわからなくて感想も何もないかも知れんけど。

まぁ、感想欲しければ自分で感想貰いに行って、
それでも感想貰えなければ、
『感想何もわかない作品作っちゃったんだな…』
っつってヘコんで終了っつ感じで。

晩御飯はオムライスでした。美味しかったです。
あと、釧路名物さんまんまは超美味だから、食べた方がいいよ。
MOOで売ってるよ。

2005 10/7
www.psychedesire.org
[PR]
by bungeisai | 2005-10-10 01:50 | 第三回コラム