第一回コラム

ハリジャンぴらのさんのコラム


えー初めましてでございます。ハリでございます。
「猫とファミコン。」と言うちんけなテキストサイトの管理人です。
非flash職人ですが、今回からチロチロとflashについて語らさせて貰います。
全く、主催はこんな素人引っ張り出して何を考えてるんでしょうねえ。

それはとにかく。
今日は物語の中における作中人物の「死」という装置について軽く書いてみます。

作中人物が死に、その死を巡って物語が進行する。あるいは重要なキャラクターが
死ぬ事で物語が展開するというのはflashに限らず、実によくある物語展開だ。
昨年の文芸祭参加作品の多くが、同じ様な物語展開をしていたことは
皆さんも記憶しているでしょう。
いや、文芸祭だけじゃない。「キミとボク」や「セイウンスカイ」等の古典的名作flashに
おいても作中人物の死はしばしば登場する。

作中人物の死というのは偶然ではなく、物語の「装置」として必然的に起きる。
物語とは出来事や事件を描く事なので、「死」も物語の常套手段として
よく登場するわけだ。しかも別離や変化、そして教訓などを与えてくれる
「死」という事件は見る者感動を促す効果が強く、シェークスピアどころか
神話の時代からよく使われている。
だから去年の文芸祭が作中人物の死で溢れてしまうのも、感動系flashなどと呼ばれて
二次配布サイトに並べられてしまう古典的名作flashたちの多くが作中人物の死によって
展開しているのも必然と言えるだろう。
常套手段だから。

しかし「こうも死ぬ話ばかり見せられても何だかなあ」というのが
去年の文芸祭を観た観客の素直な感想じゃないだろうか。作中人物の「死」は
確かに便利な物語装置なわけだけども、あまりに安易に使っても「死」はむしろ
その重々しさを失って嘘臭くなってしまう。
ましてflashは長くとも10分くらいの作品が多い。ホントだったら時間をかけて
掘り下げて描いて血が通ったところで死ななければならない人物を、
効果的に殺すのには難しい尺なのだ。

ではflashと作中人物の死という物語装置は相性が悪いのか、全く無謀な事なのかと
言われると、現実には名作flashと呼ばれる作品の中にも死を描いた作品は少なくない。
「死」は扱いの難しい主題だけれど、使い方によっては素晴らしい作品にもなりえるわけだ。
面白いことに「死」を取り扱った、いわゆる駄目な作品も名作と呼ばれる作品も
物語展開やプロットはそんなに大差はなかったりする。
それでも差が出てしまうのは、細かい演出や文章、キャラクター造形といった
技術的な部分によるところが大きいと思う。
つまり「何を描くか」ではなく「いかに描くか」に作中人物の「死」を描いた作品の
出来・不出来は別れるわけで、flashで「死」を取り扱うのならば、安易な作りをせずに
細部にこだわる必要があるんじゃないかなあと思うわけです。

……とflash弄ったこともないテキスト屋が言ってました。
「偉そうなこというな」とか石投げないで。
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by bungeisai | 2005-09-18 21:41 | 第一回コラム


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