第四回コラム

ワシ@部屋長さんのコラム(1)



1、よみとばしとかいう男

先日、東京でちょっとした飲み会があったのですが、その席でなにやら間の抜けたにやけ顔で、ニート臭漂う男が僕の目の前によろよろと現れました。
おやおや、なんだ? この踏みつけたくなるような面構えの男は、といぶかしく思っていると彼はへらへらと、
「あっし、よみとばしでやんす」
といかにも下っ端臭い語り口で自己紹介。

はて、なぜ僕の顔を知っているのだ? と問うと、
「以前会った事あるよ、やだなあ、健忘症っすか? 君、藁藁」
などといいながら、ケタケタとひと笑い。
ニート風情が「健忘症」という言葉を知っているのも驚きですが、自分の記憶力のなさにもびっくりしてしまいました。
ただ、おそらくこの面なんぞ記憶する価値はないと無意識に判断したからだろう、と自らに言い聞かせながら何用かたずねました。

するとよみとばしというニート、にやけて曰く、
「いやあ、オレ、今文芸祭、あ、知ってるっしょ? あの文章系の一大祭り、一流の文章系Flash職人たちが文章で見せるあの年に一回のイベント、文章系の代表としてオレが主催してるんっすけど、今そのサイトで文芸動秋ってコラムやっていて話題になってんすよ。で、一応文章系っぽいFlashを作ってるらしいワシさんも当然なんか書きたいだろうから、スペースあげるから書いてもらおうかなあ、って思ってるんすよ。なので、今度書いてくださいね」
とのことでした。

あまりに頭の悪そうな物言いにくらくらしながら、ニートと違い社会人には仕事があるし、いったいどういう内容のものを書くのか、どういった納期でどういった訴求の仕方で何ワードくらいの文量を納品すればいいのか聞かないうちには、責任を持って受諾できないしものは書けないよ、とハローワークのおじさん的心境で穏やかに説いてあげました。
ところがこのニート、何をどう解釈したのか、うんうんとうなずきながら、
「なら、忙しいところ申し訳ないんすけど、やってくださいね。内容とかは直前に送るんで」
とあさってな返答。

うーん、ニートいずくんぞ社会人の日常を知らんや、といったところなのでしょうか? あるいは頭が悪いだけなのか、これ以上議論をしていても時間の無駄といち早く理解した僕は、とりあえず書かせていただくことに。
で、その内容、今日(10月22日)確認、明日発表だから今日中に書けとのことでした。
あー、やっぱり頭おかしいんだ、よみとばちゃんって。


2、そもそも「観覧者を意識して作る」必要はあるの?

閑話休題。
長い前置きになりましたが、せっかくなので僕もちらりと書かせていただきます。
テーマは「観覧者を意識して作品を作ることについて」 なのだそうです。
んー、なんていうか、前提として表現者が基本自由に表現でき、表現を無料で見られるインターネットという環境下において、必然性として「表現者」と「観覧者」という区分けが存在するのか、はなはだ疑わしいのですが……。

例えば一般のメディアを広く見渡せば、それぞれの主格とそのレーゾン・デートルは判然としています。
テレビ番組を挙げれば、作る側は「CMを有効に見てもらうためのコンテンツ作り」ないし「制作費を出す主格(NHKであれば受信料を払っている人)にとって有益である情報を流すこと」、また見る側は「CMを享受してもいいと思えるコンテンツ探し」と「人生に必要な情報供給」のはずです。
それぞれの要求とレーゾン・デートルが拮抗しているからこそ、そのメディアという存在は「安定」します。

ではインターネットのFlash表現において、そのような確たるレードン・デートルは存在するのでしょうか?
あるいはアフィリエイトなどをやられている方には、存在しえるのかもしれません、Flashを広く認知させないと稼げませんしアフィリエイトの内容にあったFlashでなければクリック数もあがりませんので、それが「表現者」の役割になり、演繹的に「観覧者」を意識した作品作りの答えになり得るかもしれません(そういえば関係ないけど、なんでFlashの最後なんかに直でアフィのリンクはったりする人いないんだろう? 誘導線的にはFlsahに直でリンクはった方がもうかりそうなんだけどね、直リンやデータ転載にも対応できるし。んー、どうなんだろう、アフィリエイトってやったことないからよう知らんけど)。
あと、著作権意識の薄いどっかのレコード会社にキャラクターの使用料を売ってひと稼ぎ……ごほんごほん。

僕なども一応Flashなどを作っていて、以前seasonといういんちき臭いFlashのパロディ版を出したとき、「seasonで感動したのに、気持ち悪いもの見せられて気分が害された、どうしてくれるんだ」といった内容の、ほめられているのかけなされているのか良くわからないメールを頂いたことがあったのですが、「げへへ、おいらの方がもっと気持ち悪いでげすよ、ぐへへー。まあ気にしなさんな、これからはブラクラFlashをふまないようにね」とやさしく返答してあげたくらいで、特にあれこれ対応したわけではありません。

なぜなら主格の存在意義がはっきりしていないので、それに対する責任も負う必要がありませんし、存在を擁護するための確たる理由もないからです。
「公開しているからには自分の作品に責任持て! 面白いものを作れ! 絵をもっときれいに描け!」と怒られてもねえ、その要求にこたえなければいけない理由があまりないんすよね。
あるとすれば、データとしてある表現がどのようなレスポンスを得られるかという興味を得るために、それを阻害する要素を省く必要がある、というのはあるのでしょうが、ひどい内容のものに対してひどいレスポンスがある、というのは反応として正しいわけですしね、困ったものです。


3、議論はまず命題が真であることを証明すべきもの

で、そんなこんなでどうも前提となる条件自体あやふやなこのテーマ、議論をするには議論のテーマが正当性を持っているのか、きちんと判断しないと始まりません。
なんでまたニートのよみとばちゃんは選んじゃったのかと考えると、頭が悪い、という以外にもあると考えられます。
答えは実に単純、「インターネットのFlash表現を、既存のマス・メディアの存在理由と同じイメージで捉えちゃっている」ということが原因かと思われます。
これはアマチュアイズムを大いに勘違いした発想で、いわば「プロ」のメディアがもつ責任や要件を無視した上で「プロフェッショナル」を語ろうしちゃったために起こることです。

またそれが起きるのは、「プロ」をどこかで目指す、あるいはプロを身近なところから生み出したいため全貌が見えていないからなのでしょうね。
よく「このFlashは商用でも通じる!」なんてコメントを見かけたりしますが、予算・要件・納期も条件として設定していないクリエイティブにプロフェッショナリズムでの話をしてどうするんだろう、と思っちゃうのですが、皆さんどうお考えなんでしょう?
個人的にはたかだか、といっては申し訳ないのですが、だらだら制作し、訴求が明確でもないのにネットでだらだら流しているだけの個人動画の作り手が、「観覧者を意識して作るとはいかなることか」なんてしたり顔で言っちゃうのは、ちょっと粋じゃない、というかこっぱずかしいなあ、なんて。

なので、「プロ」的なレスポンスを必要のないアマチュア製作物に対して、観覧者がどうだこうだというのは両者にとって無意味かつ根拠付けられないものなので議論にならない、というのが僕の解なのですが、それをいったら何のためテーマを設けて散文を書こう、という企画をやっているのかわからなくなっちゃうので、ある種の条件や根拠を考えない上で、「ものを作るうえで、受け手を意識する必要性について」くらいのお話をさせていただこうかと思います。


4、クリエイティブとその成立について

ところで、そもそも論として「クリエイティブ」とはいったいいかなるものなのでしょうか?
「表現を作る」という意味で捉えるなら、それはまさしく「表現」そのものであり「伝達物」なのだと考えられます。
となると、発信者がいれば、受信者も必要、つまり「観覧者」が存在しなくてはいけません。
ただものの伝達は発信者から受信者に受け渡すだけで終了するわけではありません。
当然受信者が、それを見た旨を伝える必要があります、もっと言えば「意図したとおり/意図しない形で受信した」旨を伝える必要があります。
これは当然のことで、何らかの理由がありボールを投げたとき、そのボールが目的を満たしてくれる道筋をたどりきちんと到着したか、あるいは意図しなかった場所に飛んでいってしまったか、その結果がわからなければ「ボールを投げた根拠」自体が失われてしまいます。
つまり、表現者からの「発信」にたいし「受信という発信」が行われて初めて表現を表現たらしめるわけです。

よく文明とは「コミュニケーション」だといわれますが、コミュニケーションにはこの2つの要素が満たされれば成立します。
ところがことはそう簡単なものではなく、コミュニケーションは得てして「不全」になることがあります。
その理由は大きく分けると2つあります、もちろん「発信者側の問題」、それから「受信者側の問題」の2点です。
前者は表現者が、レスポンスを得るために最低限必要な情報を発しない場合におきます。
作品の出来によって受信者が評価をするに値しないと感じるなどのケースはもちろんのこと、評価するために必要な情報がない場合にもコミュニケーションの不全は発生します。

例えば何かを伝達したい「Aさん」が伝達したい相手の「Bさん」に向かって、無言でぶっきらぼうにみかんを渡すとします。
受け取ったBさんは困るはずです、このみかんをどうすればいいのか、食べればいいのか、ジュースにすればいいのか、あるいは預けられただけなのか、それら情報がなければ受信側も困ってしまいます。
「こういったことをしてほしいんだ」「こういった反応がほしいんだ」という明確な意図があれば、その意図を伝えきるのが「クリエイティブ」を行う際の、発信者が行うべき最低限の義務だと考えられます。

またイベントやコンテストなど比較をする必要がある場であれば、その比較に必要な条件を提示するのも発信者の役割です。
あるイベントに2つの作品が応募されていたとします。
ひとつは「大変緻密なアニメーションで制作期間は2年、10人グループで作ったもの」、もうひとつは「雑だけれどもきらりと光るものがある、制作期間2日で個人が作ったもの」だったとします。

これを批評する際、受け手はそれぞれの情報を加味した上で、「緻密なアニメの方は2年10人という体制をかんがみるとそれほどたいしたことない」とか「大変すばらしい、2日の方と比べ体制も整っているので仕事としてアニメーション制作を頼める」、「2日という納期で確実に訴求力のあるものを作れるのはすばらしい、コンスタントに面白いものをつくってくれそうだ」、「もっと長い時間とスタッフを整えればきっと2年10人のものよりすばらしいものがつくれる」などの評価を下すはずです。
ところが「2年10人」や「2日個人」という情報が提示されていなかったり、不当にな形で情報が漏洩した場合、評価はがらりとかわったものになるはずです(間違いなく好評価を受けるのは前者のはずです)。
正しいレスポンスを受ける、というのは「正しく適切な情報を不足なく提示すること」から始まります。
制作者は自分の評価を正しく守るためには、正しく評価されるための努力を惜しむべきではありません。

さてもう一方の問題、「受信者側の問題」ですが、これは送信者が正しく必要な情報を提示しているにもかかわらず、当然得られるべきレスポンスが得られない場合に起こります。
先ほどのみかんの例で言えば、AさんがBさんに「おいしいみかんジュースをつくってほしい」と頼んでいながら、りんごジュースがでてきたり、腐った味のするジュースがでてきた場合、やはりコミュニケーションは「不全」となります。

元々、クリエイティブは同じジャンルやカテゴリー、参加しているイベントなりコンテストの中にあっても、コンセプトや訴求点など異なっていてしかるべきものです。
そのような、原理的にもっている相違を加味せず偏った評価をするのは、受け手のあるべき姿とはいえません。
2年10人と2日個人の例ではありませんが、それぞれに、それぞれの目的や得たいレスポンスがあり、またそれを得られるための情報を提示している状況で、仮に「自分は緻密なアニメしか興味ないので2日個人の方はおもしろくもなんともない」という意見があれば、それは正当な批評や評価ではなく、事実の鸚鵡返し、作り手が提示した情報をそのまま繰り返しているだけに過ぎません。
つまり投げかけに対し、投げかけの内容を改めて送り返しているに過ぎないのです。

もちろん人間ですから、好みもあれば贔屓目もあります、それらを含め多くの情報から、極力客観的な視点で、(誤差を消化しうるだけの)多くの意見やレスポンスを提示してあげることで製作者は自分の位置を正しく判断できるようになります。
ようは受信者も高いレベルの視野と、得られた情報から冷静にレスポンスとして、受け手からの「表現」を行う必要があるということです。

これらの不全を解消し、送信者、受信者が良い意味で拮抗し、互いに高い位置でせめぎあうことことが「クリエイティブ」をクリエイティブたらしめるひとつの要素と考えられます。
送信者はもちろん、受信者の能力が欠いていても高いレベルのクリエイティブは行えません、Flashコミュニティ界隈で作品を閲覧されている方々もぜひ、鸚鵡返し的な安い意見・レスポンスではなく、情報に基づき具体的根拠の中で確かな意見提示を行って頂きたい、と節に願うばかりです。
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by bungeisai | 2005-10-24 00:32 | 第四回コラム


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