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第四回コラム

ハリジャンひらのさんのコラム



ホントに文芸祭まであと少しとなって参りました。
あと二週間もすると始まるのかと思うと、「え? マジで? あとそんなもん?」とか思います。
マジであとそれしかないんだなあ。
あ、え、順調に準備は進んでますよ、きっと。

そんな話はさておき。
flashを作る事と観てもらうことについてのお話。
最初に言いきってしまうのも恐縮ですが、「flashを作る事」と「公開して観てもらう事」は
行為としてイコールとはいえません。
なぜかというとflashというのはジャンル名でも形式名でもなく、手法というか手段の名称でしかないわけで
flashを作る事とその作ったflashを何に使うかは結びつかないからです。
つまり「これを観る人に伝えよう」「こういう映像美を魅せよう」といった目的意識を持って制作されて
初めてflashは目的を持つ映像となるわけで、手法その物にはなんの目的もないということです。
言うなればflashはなんの模様もない器のようなもので
制作者が自由にそこに盛りつける事ができるといった感じでしょうか。
flashは所詮道具でしかありません。
したがって「観られる事を意識する」というのは「この思いを伝えたい」「こういう映像で魅了したい」
などいう目的意識を持って「観られる事を前提に制作」されて初めて意味があるわけです。
非常に当たり前のお話。
逆にいってしまえば意識しなければ、全く他人の目を気にしない
俺様オンリー面白作品を作ってしまうこともいくらでもできるわけです。

「人に観られる事を意識して作る・作らないは作者の選択次第」
前置きが長くなりましたが、それがまず前提です。
では「どこまで制作者は観覧者を意識し、どこまで制作者のエゴで作るべきか」という今回の本題に入りましょう。
あ、ちなみにこれは「商業的目的=プロの仕事ではない、個人的趣味の制作である」という
前提があります。
商業的に作られる、プロの仕事としてのflashの話はまた別のお話なので悪しからず。

さて、これはflashだけに限らず表現というものをやる限りについてまわる難しい問題です。
客観的に観られる事を意識しない製作物というのが、作者の独りよがりに終わる危険性がありますし、
観覧者を意識しすぎて、自分の作りたいものの理想から遠ざかってしまうのも本末転倒。
どこからセーフでどこからアウトか。
このバランスを如何にすべきは文学の世界なんかでも延々と議論されていたりしますが、
明確な答えは出ていません。

ちょっと小説のお話をします。
20世紀の文学を語る上で外せない金字塔的な作品の一つに
マルセル・プルーストという人が書いた「失われた時を求めて」という小説があります。
この作品は近代文学の築いてきたものを踏襲した上で、新たなる表現を生み出した、
最初の「現代文学」と呼ばれる名作なのですが、
プルーストはこの作品を他人との交流を全く断って、田舎に引きこもり、
コルク張りの書斎で十年かけて執筆しています。
観覧者を意識するということは他人の評価を意識する事でもあります。
プルーストはあえてそれを無視するというかなり強引な態度で自分の理想だけを追求して書いたわけです。
感想や他人の評価といった作品に向けられる言葉はその作品の善し悪しを量るものさしではあるものの、
作品の絶対的価値を表すわけではありません。
前回のコラムにも書きましたが、感想や批評といった「作品について語ること」とは、
すでに完成された作品に対して後追い的に再現してみせる行為でしかなく、
「過去」を語ってみせることはできても、未来を見いだす事は構造上難しいといいざるえません。
前回引用した蓮実重彦の「言葉は絶えず敗北する」という発言の真意も、批評というジャンルの限界を示したものでしょう。
ある程度のものさしにすぎないと言い切るのもアレですが、そういう側面は無視できないと言えるでしょう。
プルーストの例だけでなく、外界の声を無視し自分の理想を追い求めた小説家というのは
文学史をひもとけばいくらでもいるわけで
かの中上健次も「全世界を敵に回してでも自分の理想を貫け」と過激な発言をしているし、
J・ジョイスにしても、H・メルヴィルにしても世間の評価との対立の中で執筆をしています。
歴史に残る傑作、大きな衝撃を残した作品とは大抵において、未だ見ぬ価値観からの予想外の一撃なわけで、
それは既存の価値観や予想の想定内の作品を打ち破って初めてなされます。
真の傑作とは自分の理想を貫くことによって出来るとも言えるかもしれません。

と、ここまで書くと一部で言われる様なアンチ不要論・批評否定論のようになってしまいますが、
中上健次の過激な発言を押し通して作品を作り出せる人、ましてそれでホントに傑作を作ってしまう人が、
果たして世界にどれくらいいるかという疑問が残ります。
批評・感想はものさしにすぎないとしても、現在位置を量るコンパス、あるいは高度計のようなもので、
他人の声を無視して作るという事は自分の作っているものに対する客観的な視点をなくすことでもあり、
ある意味かなり大きな賭けに出ることになります。
プルーストやジョイスといった人達はその賭けに勝ち、傑作をものにしたわけだけど、
その影には駄目ジョイスや駄目プルーストは沢山いるはずです。
「俺の作品は凄いんだぜー。他人はそれを評価しないけど。でも俺自身は判ってる。すごいんだぜー」
そんな妄言を吐く駄目中上は掃いて捨てるほど世の中にいます。
十年引きこもって執筆したプルーストにしてもその行為が評価されるのは
実際に書き上がった作品が素晴らしかったからであり、
もしも駄目駄目な作品だった場合はただの駄目人間ということになってしまっていたでしょう。
自分では理想通りの傑作を作ったつもりが、どうみても駄作にしか見えない作品。
文学に限らず、そういった傑作になり損ねた駄作で芸術の歴史はなりたっています。
むしろ傑作とは常に駄作スレスレの中で生まれるのかも知れません。

さて今回の主題である「どこまで制作者は観覧者を意識し、どこまで制作者のエゴで作るべきか」という問題。
どちらかに傾きすぎてしまっても理想か客観性を失い、作品の面白さは失われてしまう。
そしてそのさじ加減もまた作者にゆだねられているわけです。
どこからセーフであり、どこからアウトであるか。
それを見極めるのには2つの要素があると思います。
1つはある程度自分の作品を客観的に観る目。
自分の作品に対して批評的な視点で観る事が出来る批評眼を優れた作者は大抵持っています。
自分の作品を他人が観るかの様に見ることができて、常に自分の立ち位置を確認できるのであれば、
理想めがけて一直線という無茶な航海にもコンパスが存在することになります。
とはいうものの、自分の作品に対して客観視することは非常に難しく、
まして未だ完成していない作品の全体像を観る事などは不可能なわけで、
実際には見切り発車で作ってしまうしかない部分があります。
したがって2つめに必要なのは中上の言うとおり、「自分の理想を信じる強さ」だと思います。
他人の声を訊きつつも、自分の目というコンパスを信じてただ宝の島を目指す。
そんなグングニルな強さを持つ事。
懐かしい言葉を使わせてもらえば「己のセンスを信じて」ある程度、
暴走気味に自分の理想を追うこともまた必要なのではないでしょうか。

作る事、表現する事とは、どこかやはりギャンブル的要素があります。
客観性と理想、つまり「人に見られる事と自分の理想」のバランスをうまくとって、
着地点を見つけた作品が面白いとはかぎりません。
さきほども述べた様に傑作とは常にギリギリで駄作になり損ねたものをいうわけで、
そのチャレンジを繰り広げてゆくことが「作る」という行為なのではないでしょうか。
非常に今更な意見ですが、第二回紅白の「己のセンスを信じて」というコピーは
制作者の冒険心を受け止めるアマチュアのためのイベントとして良かったと思います。
せっかくの自由度が高い、web上での作品発表なのだから、
個人的にはもっと冒険心に満ちた俺様オンリー面白作品が観てみたい。
と、そんな無茶な事を言って今回のコラムは終わります。
石投げないで。
by bungeisai | 2005-10-24 00:28 | 第四回コラム


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