第二回コラム

ひかげさんのコラム


文章系作品について語る

 文章系作品について語る、というテーマなんですけど、ひとくちに「文章系」と言っても202さんやUTPさんのようなPV的な作品や15さんの通称「Unix」やナポレオンさんのようなドキュメンタリ・歴史系の作品、はたまた昨年文芸祭に出されたハンマさんの作品のようなアニメ系のものなどなど、幅広いですよね。そのうち、文章系の本道とも言えるのかもしれませんが、純文学的とでもいうのか、思わず人生を振り返ってしまいそうな一群の創作系作品が大好きで、しばしば短文感想を某所で書いたりしています。今回はフェリス伊東さん、赤木虫大さん、ワシ@部屋長さんについて語ってみます。(公共さんについてはキモイヤシさんらに譲りますよ。)


フェリス伊東さんの「さよなら、青い鳥。」

 凄く著名なFLASHだと思うのですけれど、私はこれが2ちゃんねるが生んだ最高の傑作なんじゃないかと考えていたりします。先の4月に、このFLASHを底本にした本も出ましたね。2ちゃんねる発の本なら「電車男」ではなくて、こちらをヒトには勧めたいところ。

 はじめて観た時、それはそれはもう号泣したのを覚えています。小谷美沙子さんの切々とした歌声といい、それ以外の言葉遣いではありえない、というほど実直で胸に突き立つ内省といい、今この文章を書くにあたって再見しながら、またこみあげてきました。

 ところで、この作品ほどAAで描かれてあるからこそ素晴らしい、という作品は他にないのではないかと思っています。2ちゃんねらの内省的表現として一つの完成形にある作品なのでは。私自身ヒッキーではないですし、実際には多くの2ちゃんねらはそうでないでしょうけれど、ヒッキーやニートというのは2ちゃんねらの「精神的自画像」なのですよね。彼らの内省的な言葉や表現には、やはりAAを用いなければ届かないものがあるのではないかと思います。

 作品の背景に、楽しく煽りあいながらも、過ぎていく時にふと立ち止まって物思う無数の2ちゃんねらたちの姿が見える。これからもどんどんFLASH作品は質的に向上していくのでしょうけれど、2ちゃんねるらしい作品という意味では、「青い鳥」を超えるものは生まれないのではないかという気もします。もしも数十年後に「2ちゃんねるとは何だったのか」が振り返られることがあるとするなら、その時、必ずひきあいに出されるFLASH作品の一つではないでしょうか。

赤木虫大さんの作品群

 赤木さん、と書いていますが、自分にとってはかなり身近な友人だったりします。なので、こっぱずかしいこと夥しい限りなんですが、詩文Flashの代表的な作者さんですね。詩文Flashの製作者として名前が挙げられるのはあとPoetry Japan「詩ネマ」の木村コウさんですけど、詩文作品というのは本当に難しいわけで、開拓者として期待しています。

 「縁」や「夕暮れに」も切々と胸に痛い作品ですが、「萌黄の庭」は泣ける、を通り越して胃にキタ覚えがあります。痛過ぎて吐きそうになりました。前回コラムで、「作品中の死」について書きましたが、彼の作品の根底に横たわっているのは「死」または「絶対的な離別」なのですね。前回念頭に置いていたのは、実はそこらへんだったりします。

 でも、それはひと言たりとも「死んだ」や「離別した」という言葉では書かれていない。「さよなら」という言葉すら出てこない。散りゆく夜桜の下でみる幻影という全体と圧倒的なイメージとが語っているわけで、先のFlash★Bombでの「銀河鉄道の夜に」でも、この童話を下敷きにしたところにそもそもの主題がありそうです。ちなみにそれは「夕暮れに」に出てきた女の子が好きだったのが「銀河鉄道の夜」だったことと繋がっているのかな?

 こうしたイメージと文章の全体的な統合でしか表現できない次元にその作品はあるわけで、彼の作品というのは、内容的に泣ける、というよりもそれは祈りに似ている。祈詞のことばよりも、祈ることそのものに意味があるような。文章系のひとつの極北と呼ばれるのは、そんなところにあるんじゃないかと思ってます。

ワシ@部屋長さん「ひぐらし」シリーズ

 足掛け1年半にわたって完結した?シリーズですけど、「夏宵」は特に心地よく泣きました。Flash・動画板の文章系を代表する作者さんと言えば、個人的にはこの方です。うっかり酔っているととんでもないネタでひっくり返されそうですが、そんな懐の深さも魅力です。

 そう、懐の深さ、というのがワシさんを語る場合のポイントではないかと思うのですけれど、「ひぐらし」シリーズの素晴らしさはその射程の深さ、一対の男女の生きざまをまるごと射程に収めた奥行きの深遠さにあると考えます。シリーズの全体の視点に立ったとき、場面の一つ一つが、その場面、その台詞、そのやりとりを超えた奥深い響きを持って胸に迫ってくる。

 ところで、シリーズは圧倒的なイメージを心に残す、「地獄変」ともいえる「空蝉」で終わるわけですが、実は一つだけ、気になっていることがあります。女性がこうした修羅の道ともいえる、果てしない痛苦の上にようやく最後の境地に辿り着くのに対して、男性側の苦悩はほとんど描画上には現れないわけですよね。「夏宵」で涙しながらもちゃっかり現在の奥さんを抱き締めちゃったりする。フェミニンな批評からすると「男女間の不均等」なんてことが言えそうです。

 でも、これはそう、男性側の苦悩や胸の痛みは、語られないことのうちに、こちら見る側のうちにあるのですよね。えもいえない深み、は大量のことばを込めているように見えながら、最後の一線で寡黙であるところから立ち上がってきているのではないかと思います。沈黙のなかにこそ音が響いていくように。


 ことばを用いながら、ことばを超える何かを伝える。文章系っていいですよね、と、まとまったところで、また次回、よろしくお願いします。
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by bungeisai | 2005-10-03 23:53 | 第二回コラム


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